2020年代の未来予想 – nukumoな社会に必要な家族とシェアの話

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令和という新しい時代に突入した2019年は様々な変革の兆しを垣間見た1年であり、2020年代は歴史上もっとも人類史に多くの変化をもたらした資本主義社会に大きな変革が起こる、起こす必要があると感じる日々でした。

2019年2月にニュージーランドから日本に帰国後、有難いことに多くの方がnukumoの世界観に共感してくれたおかげで自信を持って今も夢に向かって突き進めています。しかし、その一方で「nukumoな社会はまだ早い」と言われることも多々。

当然、nukumoな社会を本気で目指す僕らにとって、nukumoは決して早い存在ではなく、今社会に必要な存在だと確信しています。未来の社会のあり方をいろんな角度から考えたとき、もし2020年代が今と同じ社会のままだとしたら、と恐怖を抱いたのを今でもはっきりと覚えています。このままでは僕らは人間らしい生活が送れなくなる、そんな危惧から独立を決意しました。

2020年代、nukumoがどんな社会を作ろうとしているのか。
その社会はこれまでの常識とは逸した社会かもしれません。それでも様々な問題を突きつけられる20年代、何かしらの変革が必要な以上、僕らは自分たちを信じ突き進みます。

社会システムが崩壊していく日本

「人口減少」「高齢化」、日本は様々な問題何に直面します。年金をはじめとした社会保障制度、働き方、地方衰退など、これまで通りでは立ち行かなく問題ばかりです。

特に、生活基盤である社会保障制度は、「経済が鈍化する」うえに「人口減少」「高齢化」とシステムの前提条件が覆る今、瀬戸際にいるように感じます。

当たり前の話ですが、崩壊してから変える、では遅いです。その時には、社会保障制度を頼りにしている人たちが不幸になるのは明らか(年金をあてにしていた人がもらえない、など)。

しかし、ぼくらは人口減少が明らかにも関わらず、2010年代、社会システムにメスを入れてきませんでした。政治の問題だ!、と言う人もいるかもしれません。しかし、選挙率の低い日本において、その選挙率の低い社会を作り出しているのは紛れもなく我々大人です。社会全体の課題を、誰かのせいにしていても、誰かが動かなければ何も変革は起きません。ただただ崩壊するのを待つだけです。

減り続ける日本の人口

総務省によると日本の人口は2008年をピークに減少を続けています。

さらに、ここから世界でも例のないほどの人口減少が続きます。高齢社会白書(2019年版)によると、2029年には1億2千万を割るであろうと予想されています。2008年のピーク時が1億2千8百万以上なので、そこから考えると800万以上の人口が減少することになります。人口予測は確率の高い予測として有名であり、大きく予測が外れることはないでしょう。

そして、「少子高齢化」も同時に進み、労働人口が減るにも関わらず社会として支えるべき高齢者の人口比率は増えます。既存の社会システムでは立ち行かなくなるのは誰の目にも明らかです。

社会保障制度への信頼がゆらぐ

将来、年金がもらえると考えている若者は少ないでしょう。すなわち、年金という社会保障制度を信頼していないということです。

社会保障制度への信頼がゆらぐ、とどうなるでしょうか。

将来の生活に対して不安を抱き、人々の思考が今を楽しむことではなく、未来の不安を解消する(貯蓄など)にはどうすればよいかに変わっていきます。それは結果として経済を冷え込ませる、など多くのマイナスな結果を生みます。すでに、その傾向は日本経済から読み取ることができます。

このような状態では社会保障制度が機能しているとはとても言えません。
憲法第25条では、国民が最低限度の生活を送るために社会保障制度があると定められています。

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

憲法第25条

「虫歯になっても病院にいける」のは、健康的な生活を送るために日本国が用意した社会保障制度(国民健康保険)が存在するからです。他の国では、高額な医療費が理由で、虫歯であっても病院にくことを躊躇する人もいます。何かあっても最低限度の生活は保障されている、という安心感は、僕らの生活を豊かにしてくれます。

しかし社会保障制度の多くは、労働者が積み立てたお金を保障費へ充てる、という仕組みなため少子高齢化社会では成り立ちません。すでに年金は、顕著にその不安が一般市民にも広まっており、2019年「老後資金2000万円」問題など頻繁にニュースで取り上げられました。

今のまま社会保障制度の崩壊が進むと、自分の生活は自分でどうにかしないといけない社会となります。はたして、それで良いのでしょうか。少なくとも憲法第25条には反します。

シンギュラリティまでの過渡期

IT革命以降、インターネット技術は我々の社会に変化をもたらしてきました。2010年代は、「スマートフォン」が人々をインターネットに接続できるようにしたことで、あらゆる情報を得ることが容易になりました。

20年代の社会を語る上でも中心的な存在になるであろうITテクノロジー。その中でも、話題の中心になるのは、AI(人工知能)であり、AIを利用したサービスが今後どんどん誕生してくるでしょう。

シンギュラリティが可能にする未来

AI(人口知能)は、2045年にシンギュラリティを迎えると言われています。
シンギュラリティとは、AIが自ら人間より賢い知能を生み出せるようになる時点を指す言葉です。この時代を迎えたときには、今では想像もし得ない知能が誕生しているでしょう。

悲観的に捉える人もいるかもしれませんが、僕は至ってポジティブに捉えています。シンギュラリティの時代、人間はやりたいことをして生きているそう思えてならないからです。

現代、「やりたくない」ことであっても生活のためにやっている人々は多くいます。やらざるを得ない、のうほうが適切な表現かもしれません。生きるためにはお金が必要で、そのお金をやりたいことをして稼げるとは限らない状態では、やりたくないから働かない、は現実的ではありません。

僕は「やりたいことをやって生きる」そういった人類でありいたいと強く願うし、そのためにはAIの力が必要だと考えています。人間のやりたくないことはAIにやってもらって、人間はやりたいことに専念する。

自動運転によって、移動は全てAIが実現してくれて、僕らは乗り物の中で好きな映画や小説を見ることができる。自動翻訳によって、言語の異なる国の人とも流暢に会話をすることができる。ロボットによって、危険な場所でのレスキューなどは人間が行う必要がなくなる。

こういった話をすると、働く必要がなくなった人間は怠けるという人がいます。

それの何がいけないのでしょうか?そもそも怠けるとは、仕事など何かを課されることがあるから存在する言葉であり、働く必要のなくなった社会に怠けるという概念が存在するとは思えません。一日中寝たいなら寝ていればいい。飽きたらゲームをすしてもいいし、外で野球をしてもいい。

お金のために何かやりたいことを断念する。そんなことが当たり前のように蔓延る現代より何倍も素敵な社会のように思います。自分の想いに素直に行動した先にこそ、価値ある未来は創造されると考えています。

シンギュラリティの到来は、創造的な行動を人間が集中できる社会に急激に近づけてくれる。そんな未来を見据えています。

過渡期をどう乗り越えるか

僕の見据える社会への賛否に関わらず、AIを中心としたテクノロジーの発展はあらゆる社会構図に変化を起こします。そして、その変化の過程にさまざまな問題が生じます。

その問題の一つに雇用喪失があります。
2030年には現在の仕事の3割が失われると言われています。前述の通り、将来的には人は働く必要はなくなり、社会に必要な最低限の機能は全てAIが担ってくれでしょう。しかし、その未来が数年で到来するとは思えません。おそらく、そんな社会が到来するのはシンギュラリティ後の話でしょう。

産業革命のときにも多くの職が失われ、そして新しい職が誕生しました。
しかし、その時とは比べ物にならない速度であらゆる職が失われていきます。そうすると、時代の変化に適応できず、職を得ることができず生活に苦労する人がでてきます。彼らを時代に適応できなかったのが悪いとしてしまうのは簡単ですが、そうではなく、こういった変化の激しい時代だからこそ社会保障制度により、最低限度の生活を社会として保障してあげるべきだと思います。しかし、社会保障制度も崩壊に向かっている日本において、最低限度の生活が保証されるから大丈夫だよ、とは残念ながら無責任すぎて言えないのが現状です。

おそらく今想像できいていないもの含め、これからの過渡期には多くの課題が浮き彫りになってくるでしょう。その中には、過渡期が過ぎれば自動的に解決される課題も山ほどあります。とはいえ、黙って時の経つのを待っていると、生活に苦しむ人を多く生むことになりかねません。だからといって、テクノロジーの進化を抑制するのは社会にとってプラスではないでしょう。

社会として、この過渡期をどう乗り越えるのか。20年代は、社会の進歩を止めることなく過渡期をうまく抜けきる方法を模索することになりそうです。

チスイコウモリに習う2020年代のあり方

人口減少と少子高齢化により社会システムの崩壊が加速する日本において、この事実とどう向き合っていくべきか。そのヒントはチスイコウモリの「互恵的利他行動」にあると考えています。nukumoが作ろうとする社会は、まさにチスイコウモリの社会であり、その社会こそが20年代に必要な社会の在り方だと強く信じています。

そして、経済成長を前提としたあらゆる制度が崩壊していく20年代において、真っ先に社会保障制度が崩壊する日本は、世界へ向けて新たな社会の在り方を説いていく立場にあるように思います。AIが人間の代わりに働いてくれ、そして人間は自分のやりたいことに専念する、そんな社会の誕生までの過渡期の被害者を生まないためにも、共助の心を大切にした社会を実現したいと、そう心に決めました。

チスイコウモリの生態系

チスイコウモリの「仲間に血を分け与える」という習性を知ったときの衝撃は今でもはっきりと覚えています。nukumoが作り上げたい社会を、チスイコウモリは既に実現していたからです。

チスイコウモリは血縁関係に関係なく複数のメスが群れを作って生活をしています。子供の体温を温め、捕食者から身を守るためとされています。普通のコウモリは生後1ヶ月で独り立ちするのに対して、チスイコウモリは9ヶ月ほど要するようです。

それだけではなく、不運にも獲物に出くわすことができなかった仲間がいれば、彼らに吐き出した血を分け与えます。チスイコウモリは動物の血を餌とすることで生きる生物ですが、2晩続けて食事ができいないと死んでしまうため、獲物に出くわすことができないことは彼らにとって致命傷なわけです。

この現象は、自分があとで助けてもらうために相手を助けておく「相互利他行動」の古典的な例として、1980年代に米メリーランド大学の生物学者ジェラルド・ウィルキンソン氏が報告されて以降、科学者たちの興味関心の対象だったようです。しかし、現在のような技術がなかったため詳細な生態系は分からず。そして近年、技術の向上により様々な面白い生体系がわかってきました。

パナマのスミソニアン熱帯研究所のカーター氏によると、個々のコウモリ(オスもメスも)に24時間エサを与えずにおいて群れに戻し、どのコウモリがお腹をすかせた仲間に吐き戻した血を分け与えるかを観察したところ、以下のようなことが分かったそうです(「吸血コウモリはなぜ仲間に血を分け与えるのか」より抜粋)

  • 血を与えたことない自己中心的なメスよりも、他者に血を与えたことのあるメスのほうが自分が空腹時に多くの血を分け与えてもらえた
  • 一部のコウモリは、自分に血を与えなかったコウモリに血を与えることを拒んだ
  • 多くのコウモリは、ふだん血を分けてくれる相手がたまたま空腹で吐き戻しをくれなくても、そのことで関係が悪化することはない

チスイコウモリの社会では、余剰な血を独り占めしたり捨てることはせず、それを他者に与え、そして、その行為の積み重ねで築いた信頼関係により、将来空腹に困ったら血を得られる保険契約を結んでいるように思います。

余剰と不足が混在する人間社会

では、人間社会はどうでしょう。

nukumoでは、Trash Kitchenという事業を行っています。これはフードロスとして捨てられるはずだった食材を活用した飲食店であり、それによりフードロスをなくすことを目的としています。なぜ、フードロスをなくそうとしているのか。環境問題への危惧は、理由の一つです。大量に作り、大量に廃棄する。その過程の中には環境に害をきたすものもある。食べれるはずの食材を捨て、環境まで汚してしまう。それだけではありません。日本では相対的貧困の割合が先進国の中でも高く、子供の7人に1人が相対的貧困だと言われています。それにも関わらず、食べられるはずの食べ物が大量に捨てられている。そんな馬鹿げた話が許され続けた10年代に僕らは大いに疑問を感じていました。僕らはフードロスを活用することで、より安価に誰もが健康で空腹に困ることのない社会の実現を目指しています。

フードロスは一例に過ぎず、地球上には、あらゆるものが余りに余っており、そして日々大量に処分されています。その一方で、処分されているものですら手に入れることができず生活に苦しむ人がいます。生活に苦しむというと言い過ぎかもしれません。あなたが綺麗な写真を取るために欲しいと思っている一眼レフも毎日大量に捨てられています。

僕らの生きる社会は、余剰と不足が混在する何とも矛盾した社会です。

余剰を与える、それだけでいい

日本人は、最低限度の生活を送ることができる。
日本国憲法に定めらたわれわれの権利であり、そのために社会保障制度が存在しています。

しかし相対的貧困な人の中には、明日の食べ物、明日の住む場所に心配な人が数多くいます。明日ではなく30年後であれば、かなりの日本人があてはまるでしょう。にもかかわらず、大量に食材を捨て、欲している人たちのもとに届くことはありません。

はたして、これで良いのでしょうか。

人口が減少するにつれ社会保障制度の崩壊していく20年代、どのような仕組みであれば最低限度の生活を保障できるのだろうか。

そのヒントを僕はチスイコウモリに見出しています。
人間社会には余剰がある。であれば、それをただ分け与えれば良い。空腹で困っているチスイコウモリがいたら血を吐き出し与えるように、人間も余った食べ物は空腹で困っている人に与えれば良い。それを食材以外にも、家、服あらゆるものでも同様に行えば、最低限度の生活を送ることはできるのではないだろうか。

贅沢をしたい人はすれば良いと思います。稼いで、そのお金でミシュラン3つ星でも食べにいくと良い。でも、最低限度の生活を送る権利がわれわれ日本人にはあると言うのであれば、その生活が送れていない人には無償で助けてあげるべきではないだろうか。自己犠牲をする必要はありません。ただ、あなたの余剰なもの(捨ててしまうもの)を与えれば良いだけです。

余剰を与える。ただそれだけで社会は劇的に変わる。

互恵的利他行動を前提とした社会は作れる

AIによる大きな変革の過渡期に加え社会保障制度の崩壊を迎える20年代、われわれは社会保障制度を再定義するべきだ。

最後の章では、これまでの話をふまえ「20年代、社会にどんな変革をもたらすべきか」について見解を述べていきます。僕が掲げる20年代のテーマは「シェア」「家族」「社会保障制度」です。

そして、これら3つを複合的に実現した社会を僕は「nukumoな社会」と呼んでいます。

シェアとは余剰を与える行為

現代の資本主義の原理に従い、市場に価値あるものを提供した人にお金が流れ、それができない人にはお金が流れないを許し続けると、これまで以上に貧困層と富裕層の差は広がる一方です。加えて、社会保障制度が崩壊する日本では先進国にも関わらず、最低限度の生活すら送れなくなる人の割合が増える可能性があります。

そんな社会に希望を照らしてくれるのがチスイコウモリの社会であり、そして余剰のものを与えるというGiveの精神。互恵的利他行動は、相手の利益のために無償で与える行動ですが、それはいつか自分自身も助けてもらえるという互いの利益を前提とした行動です。前述の通り、人間社会には多くの衣食住が余っている。では、それを得れていない人に最低限度の生活が保障できる範囲は与えましょう、ただそれだけの話なはずなのに資本主義の社会では何故か実現されていない。

余剰を与える、とはシェアという言葉で置き換えることができます。シェアとは、自分が利用していないものを誰かに与える行為のことであり、チスイコウモリの血を与える行為もシェアの一種です。これ以外にもシェアは、余剰の有無に関わらず分配する行動も指します。

しかし、余剰がない状態でのシェアは自己犠牲を伴うため、長続きさせることは難しい。一方、余剰がある状態でのシェアは、自己犠牲は伴わないため貢献欲求次第で持続的に行い続けることが可能になります。

家族の拡張はシェアを促す

書籍ジャイアン2.0のなかで、シェアを行うには「貢献したい」という気持ちが重要であることを解説しました。貢献したいという欲求は「自己的」「利他的」の二つから成る欲求であり、どちらか一方だけの場合もあれば、どちらも含む場合も存在します。

10年代はこのうち自己的貢献の文脈でのシェアに関わるサービスが多く登場しました。AirbnbやUberを代表するシェアサービスの多くは、余剰のものを誰かに与える見返りとして金銭を頂きます。この仕組み上、利他的貢献の想いでサービスを利用している人もいますが、圧倒的に自己的な理由で利用している人が多い印象を受けます。
※ シェアサービスの多くは「シェアする対象が余剰なのかどうか」をシステム設計に考慮していないために、もはやシェアとは名ばかりで在庫を抱え販売していた旧来のビジネスとなんら変わりのないサービスが山ほどあります。それにも関わらず、それをシェアのサービスだと捉える社会の潮流には疑問しか抱きません。シェアも起きるけど、シェアを目的としたサービスではないよね、くらいが正しい認識だと思います。話が脱線するので、ここはまたの機会にでも記事にします。

僕らが20年代に希望を見出しているシェアは、「余剰のシェア」であり「利他的貢献」を目的に無償で行う行動です。そして、この行動は家族という枠組みの中で経験したことがあると思います。

お父さんが稼いだお金で、お母さんが食材を買いご飯を作る。そして、子供含め家族みんなで食べる。自分の稼いだお金を仕事をしていないお母さんと子供が食べる食材費に充てるのも、お母さんに対価を払うことなく美味しい料理を食べれるのも、全ては家族に貢献したいという想いがあるから。そして、その恩を感じた子供はいずれ両親へ親孝行したいと思うようになります。ここで、家庭のお財布事情に余剰がある場合、余剰のお金は家族との旅行やあらゆる家族への貢献活動に使うでしょうし、「余剰のシェア」と「利他的貢献」がうまく機能している家族は、とても温かみのある家庭を築けています。

家族のような信頼した間がらにおいて、利他的貢献欲はとても芽生えやすいし、余剰なものがあればシェアをしようと思う。そして、それが結果として自分自身の幸福度にもつながる。

家族でさえ信頼を築けてない場合もあれば、非血縁であっても家族のように信頼関係を築けているコミュニティもあります。信頼とは、そう簡単に築けるものではなく小さな貢献の積み重ねによって構築されるものです。

余剰のシェアは社会保障につながる

綺麗なカメラを撮影したいときにカメラを利用していない人から借りて、余った食材でホームパーティを開き、そういった事例が増えるほど、僕らの生活に必要なコストはどんどんと下がっていきます。まさにnukumoが資産管理アプリを通じ行っているのは、この事例を作ることであり、共有資産(個人にとって余剰な資産の集まり)の量が増えれば、それは社会保障のようなものになっていきます。

ここにある資産はみんなで利用しましょう。それは自分が必要なときには無償で利用できる権利であり、そこに生活必需品が揃っていれば、日本国憲法にある「最低限度の生活を送る」も実現できるでしょう。

社会保証制度を自分たちで作る

社会保障制度について記載した章では記載しませんでしたが、人口が減るとはいえ1億人以上いる日本で国民全員が満足するような制度を作ることは無理に等しいと考えています。どこかで必ず不満はでるし、インターネットにより情報を簡単に得られる時代、他の国の制度に憧れる人も必ず出てきます。それでも崩壊する社会システムを黙って見過ごすわけにもいかない。

だけど、「余剰のシェア」を信頼関係のある人たちと行えば、民間人である僕らでも社会保障制度を作ることはできます。まずは、本当に信頼できる人たちとシェアを行い、生活にかかるコストを下げましょう。そして、次第に信頼できる人の輪を広げたり、余剰の定義をシェアする対象を拡張することで、徐々に生活は豊かになるし、信頼できる人たちの間での格差は減っていきます。

チスイコウモリのように今の自分の利益だけではなく、仲間の利益、そしてもっと長期的な自分の利益を考えれる人とそうではない人の間で豊かさに大きな差が生まれる、20年代はそんな時代になるように思います。

ただ、幸運にも日本は先進国であり、多くの食料や家など生活に必要なものが余っています。そうした余っているものをシェアできる仕組みをTrash Kitchenのように作っていき、日本中に広げていきます。

余剰のシェアを信頼できる家族と行い、自分たちの社会保障制度は自分たちで作っていく、そんなnukumoな社会を実現する20年代にします。

さいごに

nukumoは、僕らが肌で感じた社会の課題と今後想定される社会への危惧を前提に生まれており、その社会こそ20年代の予想そのものであるため、最後の章ではnukumoの想いを中心に書かせていただきました。

「シェア」と「家族」という概念に強い可能性を感じており、その概念を体現した社会の構築こそ現代の不条理な事実と20年代に起こる問題への対策になると信じています。ただ、あくまで僕らが目指す社会は「経済が多様化した社会の一部」にすぎず、僕らの概念だけで世界のみんなが幸せになるとは全く思っていません。むしろ、これだけ情報を簡単に得られる時代に万人を幸せにする唯一の方法は存在しないと思っています。

僕らはチスイコウモリの互恵的利他行動に今後の可能性を見出していますが、そうではない人たちがいてもよく、それぞれが自分たちの望む社会を構築することができることこそが、20年代の社会の在り方のように思います。

その一つの事例として、nukumoが社会にインパクトを与えれたら嬉しいですし、少なくとも僕らの大切な家族(友達や恋人も含む)と助け合いながら、未来を心配するではなく未来に希望を持って生きていける社会の実現を引き続き目指していきます。

special thanks
写真提供:北村渉

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