こんにちは、おぐりんです。「人は、自ら知る“最善”に忠実でない時にこそ、本当に失敗する。」──ユヴァル・ノア・ハラリこの言葉に出会ったとき、ふと過去の自分の選択が頭をよぎりました。僕たちはとかく「成功=結果」で測ってしまいがちです。でも、それは本当に自分の“最善”だったのか?と問われると、胸がチクリと痛む。この記事では、「自分の最善に忠実であること」がなぜ人生の鍵になるのか、僕自身の実感とともに考えてみたいと思います。思い通りにいかないことがあっても、「最善を尽くした」と思えるかどうかが、その後の人生の納得感を大きく左右すると感じています。「矢印が自分に向いているか」がすべての始まり僕が考える“最善”とは、ずばり「やりたくてやっているか」です。誰かに言われたから、評価されそうだから──そんな“外側の動機”からではなく、自分の内側から湧き上がる意志かどうか。「自分で選んだ」と思えるかどうかが、その行動の純度を決める。たとえ失敗しても、自分が信じてやったことなら、納得できるんですよね。人間関係やキャリアの選択でも、「自分の心に正直だったか」は、あとになって効いてきます。迷いのない決断なんてないけれど、「矢印が自分に向いていたかどうか」を問うことが、最善の確認になると思っています。他人の言葉を信じたとしても、選んだのは“自分”過去には「この人を信じてやってみよう」と思ったこともあります。でも、うまくいかなかったときに、「あの人のせいだ」と思ってしまう自分もいた。でも結局、その人の言葉を“信じる”と決めたのは自分だったんです。もしその納得がなければ、それは「やらされた」と感じてしまうだけ。最善を尽くすとは、「信じた選択に責任を持つこと」でもあるんですよね。その意味では、「人に言われたからやった」選択でも、自分で選んだと本気で思えていれば、それは“自分の道”なんだと思います。人の助言を参考にすることと、人のせいにすることは違う。その違いに気づけたとき、初めて“自分の人生”が始まる気がします。自分の選択を信じる。その積み重ねが“自分らしさ”になるありがたいことに、僕はこれまで「自分で決めてきた」と思える選択を繰り返してきました。誰に何を言われても、「自分の感覚に従う」こと。それは時に不安にもなります。「本当にこの道でいいのか?」と揺れることもしょっちゅうです。でも、理想に向かって一歩ずつ進んでいるという感覚があるかぎり、迷いながらも歩ける。それが僕にとっての“信じる力”なんだと思います。この“積み重ね”が、自分らしさの核になっていく。たとえば、他の人から見て合理的じゃない選択でも、自分の感覚に忠実だったという一点で、結果よりも大切な価値があるように思います。揺らぎながら信じ続ける。それが人間のリアルもちろん、いつも自信満々でいられるわけじゃありません。むしろ、自己肯定感や自己効力感が下がるときのほうが、信じることの難しさを実感します。でも、信じて進んでいるからこそ、「今の自分じゃ足りないかも」と思える。それは苦しいけど、裏を返せば“理想がある”という証拠でもあるんですよね。揺らぎは、人間らしさの証です。信じることと疑うことは、矛盾ではなく共存できる。むしろ、その両方があるからこそ、自分にとって本当に大切なものが見えてくる。その過程こそが、“成熟”なのかもしれません。「教える」ではなく「伴走する」未来へ僕が今、目指している理想はこうです。人の“生きる道”に寄り添える存在でありたい。「教える」よりも「一緒に考え、歩む」スタイル。ありがたいことに、今は学校法人の顧問として関わる機会もいただいていますが、もっと広い意味での“教育”に携わっていきたいと思っています。それは、僕自身も誰かに支えられながら、共に成長していく道。単なる知識の提供ではなく、“問いを共有すること”が教育の本質だと考えています。このスタイルが広がれば、もっと多くの人が「自分の最善」に気づきやすくなると思うのです。あなたにとっての“最善”とは、どんなものですか?もし今、誰かの評価や結果に心を揺らしているなら、一度「本当に自分で選んだ道かどうか」を問い直してみてもいいかもしれません。あなたの中にある“静かな確信”に耳を澄ませてみてくださいね。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です