こんにちは、おぐりんです。教育について考えるとき、いつも頭をよぎる言葉があります。「教育とは自由の練習である」──ジョン・デューイ一見すると、少し不思議な表現ですよね。「練習?自由って、自分の好きにしていいことじゃないの?」と感じた方もいるかもしれません。でもこの言葉には、現代においてこそ大切にしたい“自由の本質”が込められているように思います。そして同時に、「私たちは本当に自由を手に入れているのだろうか?」という逆説的な問いも含まれているように感じます。好き勝手ではない「自由」デューイが語る自由は、「ただ好きなように振る舞うこと」ではありません。状況を理解し、自分の意思で判断し、選び取る力。それが、彼にとっての自由。社会の中には、ルールや制約があります。その中でどう選び、どう行動するか。他者と関わりながらも、自分の軸を持つというのは、決して簡単なことではありません。しかし、だからこそ教育という場で“自由の筋肉”を育てる練習が必要になるのです。自由は、生まれたときから完全に使いこなせるものではなく、日々の選択の中で培われていく“力”なのだと思います。「自由がない人」の特徴逆に言えば、練習がなければ多くの人は「自由を使いこなせない」まま社会に出ていくことになります。選択肢があるのに見えていない他人の価値観をそのまま生きているルールに縛られることで安心してしまう誰かに正解を教えてもらうことを無意識に求めてしまうこうした姿は、私たちの身近にもたくさんあります。自分の選択で生きているようで、実は“誰かの枠組み”の中でしか動けない。それは一見すると安全で効率的に見えるけれど、本当の意味での満足感や納得感が得られないことが多いのではないでしょうか。たとえ物質的には豊かで「自由そう」に見えても、心の自由を持っていなければ、それは本当の自由ではない。心の自由は、制約の中で育つ自由を“筋肉”だとするなら、鍛えるには負荷が必要です。つまり、制約やルールこそが自由を育てる舞台なのです。私たちは「制限のない状態」を自由だと感じがちですが、制限があるからこそ、自分で考える余地が生まれます。制限がある環境で「自分らしい選択とはなにか?」を問い続けることが、自由の本質を育てる練習になるのです。決まった枠の中でどこまで工夫できるか?失敗したときにどうリカバリーするか?周囲の価値観と違うとき、自分の信念をどう扱うか?こうした問いを重ねるなかで、自由という“選択の筋肉”は少しずつ強くなっていきます。「孤立した自由」は、自由じゃないもうひとつ大切なのは、自由は“誰かとの関係性”の中にあるということです。自由というと「誰にも縛られずに、自分だけのペースで動くこと」と捉えがちですが、人間は社会的な存在であり、完全に孤立した自由は成立しないのです。むしろ、他者と関わり、社会と交わるなかで、自分の思考や信念が磨かれ、広がっていく。そうした関係性の中にこそ、より深い自由があるのではないかと思います。つまり、自由とは“関係性の中で自分らしくあれる力”。それは、他者と違う意見を持っても対話を続けられる勇気でもあり、誰かを否定せずに自分の意思を通す柔らかさでもあるのかもしれません。教育とは、自由を実践する場だからこそ私は、教育を「自由を実験するフィールド」だと思っています。私たちは、教育を通して「何を知っているか」以上に、「どう選ぶか」「どう関わるか」を学んでいるのではないでしょうか。小さな意思決定の場面を重ねていくことで、子どもたちは少しずつ“自由の感覚”を育てていく。どう学びたいか?どう関わりたいか?どう生きたいか?それに対して、自分なりの答えを持てること。そして、その答えが変わってもいいという柔軟さを許容できること。そうした練習が、未来の選択肢を広げてくれるのだと思います。教育とは、問い続ける力を育てること。問いに向き合い続ける時間のなかで、自分なりの価値基準や判断軸が育っていく。自由とは、そうして育てられる“内なる力”なのです。最後に:あなたにとっての「自由の練習」は?ジョン・デューイの言葉を借りるなら、自由は「与えられるもの」ではなく「育てるもの」。教育という営みの中で、私たちは日々、自分なりの“自由”と出会い、選び、使いこなす練習をしています。その練習は、時に迷いや葛藤を伴います。でも、そこにしか本物の成長はないのだと思います。そしてその力は、未来を自分で選び取るための土台となっていく。自分で人生の舵を握るということは、ある意味とても不安定で怖いことでもあります。けれども、それ以上におもしろくて、自分を誇れる生き方でもあるはずです。では、あなたにとって「今、練習している自由」とはなんですか?その問いから、また新しい学びが始まるかもしれません。