こんにちは、おぐりんです。ある日、子どもが「野球選手になりたい」と話してくれたんです。もちろんその夢自体は素晴らしい。でもふと、こんなことを考えました。「この子がほんとうに目指したいのは、野球選手になることなのかな?」もしかしたらそれは、お金を稼ぎたい、誰かに認められたい、ヒーローになりたい……そんな内側の“WANT”があって、その手段として「野球選手」という言葉が出てきたのかもしれない。こうして見えてくるのは、人が本当に向き合うべきは“目的”ではなく“命題”ではないかということです。教育とは「問いの根源に触れる営み」だと、僕は思います。つまり、「なぜそれをしたいのか」「なぜそれが気になるのか」といった“なぜ”を深掘りすること。これは知識を与えるだけでは届かない、人間の根っこに関わる行為です。命題は「なぜ?」から生まれる「なんでこうなってるんだろう?」「なんでこれがやりたいんだろう?」そんな素朴な疑問や、自分の内側から湧き出る欲求。それこそが命題のはじまりなんじゃないかと思うんです。だから僕は、「答え」を教えるだけの教育には、どこか物足りなさを感じてしまうんですよね。答えっていうのは、命題から導き出されるアウトプットです。先に答えを知ったところで、命題にはたどりつけない。むしろ逆で、「問い」を持つからこそ命題が生まれる。命題があるからこそ、自分にとっての“意味ある答え”が導かれるんですよね。この命題が言語化できたとき、人は自分の中に羅針盤を持つことができるようになります。つまり、周りの声に惑わされず、「自分がどこに向かっているのか」「何を大事にしたいのか」を判断できるようになる。それは単なる“目標”とは違う、生き方全体を方向づける感覚です。他者比較が命題を奪うでも現実には、WANTが曖昧になったり、そもそも問うことを忘れてしまったりする場面がたくさんあります。特に教育や社会の中で感じるのは、他者との比較が基準になりすぎているということ。たとえば偏差値って、相対的な他者との比較によって導き出されますよね。でもそれって、「昨日の自分」との比較ではない。自分の感覚や温度が置き去りになってしまう。命題は“自分との対話”からしか生まれないのに、他人の物差しばかりで評価され続けると、やがて問いを持つ力が削がれてしまう気がします。そして気づけば、「何をしたいのか」ではなく「何をすべきか」が中心になる。「やりたい」より「やらなきゃ」が支配する。これでは、命題に近づくどころか、むしろ遠ざかってしまいます。評価の軸を「昨日の自分」に戻す僕は、教育における評価軸を「昨日の自分」に置き直したいと考えています。例えば、前回まで数学のテストで10点しか取れなかった子が、今回は20点だった。それってすごい成長じゃないですか。100点を取ることが偉いんじゃなくて、どれだけ“自分の中の変化”を生み出せたかが何より大切だと思うんです。そしてこの視点を持てると、「命題に近づいているかどうか」という新しい評価の物差しが見えてきます。この物差しは、他者と比べる必要がないからこそ、誰にでも優しい。子どもたちは「ちゃんと変化してるんだ」と実感できるし、それが自信や自己肯定感にもつながります。成長は線ではなく、点の積み重ね。その点をどう見つけ、どう祝うか。これこそが本来の評価であり、教育の醍醐味だと思うんです。AIが“命題ベースの教育”を支える時代へもちろん、一人ひとりの命題や変化に気づくのは、先生一人では難しい場面もあると思います。でも今は、テクノロジーがそれをサポートできる時代です。AIが学習の履歴を分析し、その子の成長や変化に寄り添うフィードバックを返す。そんな仕組みがすでに動き始めています。「個の連続性」を支える教育。それができれば、もっと自由で、もっと自分らしく学べる社会になるんじゃないかと感じています。たとえば、毎日の振り返りや行動記録をAIが可視化し、「前よりこんな言葉を多く使うようになったね」とフィードバックしてくれる。そんな未来が現実になりつつあります。テクノロジーは冷たいものではなく、問いのあたたかさを支える存在にもなれる。僕はそう信じています。問いを育てることが、学びの根っこになる教育の目的は、答えを早く出すことじゃない。むしろ、問いを育てること。「なんでこう思うんだろう?」「なぜこれがしたいんだろう?」そんな小さな問いの感受性が、自分だけの命題を生む。そしてその命題に向かって歩き出すことが、人生そのものの学びになる。僕は、命題を持つ人の目の輝きが好きです。その人にしかない道がそこにあるから。どんなに小さな問いでも、自分の言葉で向き合ったものは、確かにその人の人生をつくる材料になると思うんです。だからこそ僕は、教育とは「命題を問う技術」だと思っています。答えの正しさではなく、問いの温度で学びを評価できる社会。そんな未来を、一緒に育てていきたいです。そして、いつかこの社会全体が、「問いを持つこと」にもっと寛容になり、子どもも大人も、誰もが“自分の命題”を語れる世界になっていったら。そんな未来を思い描きながら、僕は今日も問いを立て続けています。