こんにちは、おぐりんです。最近、「才能とは何か?」という問いについて、ある研究者との対話を通して改めて深く考える機会がありました。そのとき僕の中で明確に言語化された感覚があります。それは、才能とは能力ではなく、“狂人のように没頭できる対象への持続的な指向性”だということです。ここではその考え方を、僕なりにできるだけ丁寧に、わかりやすく紐解いてみたいと思います。能力とは結果にすぎない社会では才能というと「できること」「成果を出せること」「目立ったスキル」といった、いわば“目に見える結果”によって語られがちです。つまり能力=才能、という構図が常識として根づいています。でも僕は、それに違和感を抱いてきました。というのも、「成果」や「スキル」と呼ばれるものは、あくまで“没頭の痕跡”であって、その人の内側にある動力源ではないからです。例えば、絵がうまい人、プログラムが書ける人、文章が巧みな人──確かに能力として見れば優れている。でも、もっと大事なのは「なぜそれをやり続けられたか」。つまり、その人がどれほど狂人のように没頭してきたかこそが、本質的な才能なんじゃないかと思うのです。実際に、突出した成果を上げている人の共通点を見てみると、その裏には「没頭し続けてきた時間」があります。好きだからというより、“やらずにはいられない”という衝動のようなものに突き動かされている。狂気的没頭という現象僕は、「狂気的没頭」が起きているときこそ、人は才能を発揮していると感じます。本人にとっては、ただ「気づいたら時間が過ぎている」。でも周囲から見ると「なんでそこまでやるの?」「そこまで夢中になるって異常じゃない?」というレベル。このギャップこそが、才能のサインです。・本人は努力してる感覚がない・でも成果は自然と積み上がっていく・やめようと思っても、また戻ってきてしまうこれって、いわば「愛してしまっている状態」なんですよね。さらに言えば、この“狂気的没頭”が起きている状態では、本人は周囲の目を気にしていません。評価を求めているわけでもなく、何かのためにやっているわけでもない。ただ没頭してしまう。その純度の高さが、結果的に人の心を動かす力になるのだと思います。Loveとは没頭である「Do what you love(好きなことをやれ)」という言葉がありますが、僕は最近、「Loveって結局なんだ?」と考えることが増えました。僕の結論は、Loveとは没頭のことだということです。心理学者チクセントミハイの「フロー理論」にもありますが、人が最も幸福で創造的である瞬間は、時間を忘れ、自己を忘れるほど没頭している状態です。その状態に入っているとき、周りからはまるで“狂人”のように見える。でも本人にとっては、それこそが「自然」で「充実している」時間。つまり、Loveとは対象への感情ではなく、存在の状態なんです。そしてこのLove(没頭)は、やろうとしてやれるものではなく、“やってしまう”もの。意志や努力ではなく、流れるように動いてしまう内的衝動に近い。だからこそ、それは「ラブ」なのだと思います。才能=ラブの持続可能性ここで結びついてくるのが、「才能」と「ラブ(=没頭)」の関係です。才能とは、狂気的没頭が持続可能な対象に向かう内的ベクトル。いっときの熱中ではなく、何年も何度でも立ち返りたくなるもの。一度やめてもまた手が伸びてしまうもの。誰に言われなくても、やらずにはいられないもの。こういう対象に出会ったとき、人は自然と「能力」がついてくるんです。でもそれはあくまで副産物であり、主たる評価軸ではない。能力はあとから“ついてくる”。才能は、先に“現れている”。この違いは大きいと思います。だから、才能は「見つけるもの」ではなく、「気づくもの」だと思います。「自分が狂ったように没頭してしまうもの」に、ふと気づく瞬間。それが、才能の扉が開く瞬間なのかもしれません。まとめ:才能の定義を、内側から始めよう才能とは、狂人のように没頭できる対象への持続的指向性である。能力はその結果としてあとからついてくる。本人にとっては「気づいたら時間が過ぎている体験」であり、周囲から見れば「狂気的な集中」に映る。その没頭が持続する場こそ、才能が自然に発露する場所である。これからの教育やキャリアの中で、「できること」ではなく「没頭できること」から問い直していく。そんな視点が、もっと広がっていくといいなと思っています。また、このような没頭状態は仕事・趣味・表現活動など、ジャンルを問わず現れます。そして年齢やキャリアの段階も関係ない。子どもだって、何かに夢中になっているときには立派に“才能を発揮”しているわけです。だからこそ、「才能があるかどうか」ではなく、「自分が没頭している瞬間を知っているかどうか」が大事なんだと思います。あなたにとって、“狂人のように没頭できるもの”は何ですか?それが、あなたのラブであり、才能の種なのかもしれません。もしまだ出会っていなかったとしても、それを探す旅自体が、すでに才能の入り口なのかもしれませんね。