こんにちは、おぐりんです。「最も効果的な嘘は、真実の一部を語ることだ」──ジョージ・オーウェルがこんな言葉を残しています。この言葉に出会ったとき、僕の中に強く響いた感覚がありました。全部が嘘ではない。むしろ“本当”が含まれているからこそ、人は信じてしまう。その構造の中に、情報の危うさや人間関係の繊細さが見えた気がしたんです。「真実の一部」は、なぜ信じやすいのか?僕らは、完全な嘘よりも「一部が事実の話」の方が信じてしまいます。たとえば、あるインフルエンサーが実績の一部だけを切り取って話すとき。それが事実であればあるほど、「この人はすごい」と思えてしまう。ニュースの切り抜き報道もそう。確かに“言った言葉”なんだけど、前後がないと意味が変わってくる。でも受け手は「それがすべて」だと思い込んでしまう。こうした事例を見ると、“部分的な真実”は、嘘よりも効果的に信頼をつくる。けれど、逆に言えば、それが信頼を壊すきっかけにもなるということです。自分自身も「真実の一部」を語っている僕自身、「全部正直に話してるつもり」でいても、思い返すと「あえて言ってないこと」ってあります。・相手を傷つけたくなくて、あえて言わなかったこと・自分の都合に合わせて話を切り取ってしまったこと・過去のつらかった出来事が、美化されてしまっていたこととくに、記憶ってバイアスがかかる。過去の出来事を振り返ったとき、当時の気持ちや状況を「確かに覚えてる」と思っていても、よく考えるとあいまいだったり、自分の都合のいいように再解釈されていたりするんですよね。気づかないうちに、“今の自分”に都合のいい真実だけを選んで語っていることがある。それが他人から見たら「嘘っぽく」感じられることもあるかもしれません。「正直=誠実」とは限らないじゃあ、「すべてを正確に語ればいいのか?」というと、そう単純でもない気がしています。たとえば、事実を100%並べた結果、相手がひどく傷ついてしまうようなケース。それが果たして“誠実”と言えるのか。誠実さって、「何を言ったか」よりも、「どう伝えたか」「相手との関係性をどう扱ったか」に宿るんじゃないかなと僕は思うんです。つまり、「事実」よりも「信頼」が大事で、そして信頼というのは、情報の“混ざり方”によって決まるものなんじゃないかと。情報と信頼の“グラデーション”を生きる全部が本当でも、ちょっとした「言わなかったこと」で信頼が壊れることがある。逆に、全部を言っていなくても、「この人なら信じられる」と感じる瞬間もある。ここにあるのは、「事実 vs 嘘」みたいな白黒の世界ではなく、グレーの世界──つまり、グラデーションの中にある信頼です。情報を扱うときも、人と話すときも、正確さよりも“混ざり方”を意識する。そこに、僕たちのコミュニケーションの本質があるのかもしれません。だからこそ大切なのは、「この言葉に、どんな文脈があるか」「この人は、どんな視点から話してるか」といった“背景”に目を向けること。そして自分自身も、語るときに「どの部分を見せて、どこを伏せているか」に無自覚にならないこと。情報の正しさだけじゃなく、伝え方の誠実さを考える。それが、「嘘の中にある真実」「真実の中にある嘘」を見極めるための、僕たちの感性なんじゃないかと思っています。