
「常識」は誰のもの?アインシュタインが教えてくれた、「偏見のコレクション」としての自分
公開日: 2025/10/13
こんにちは、おぐりんです。
昔から無意識に強く反応してしまうこと
「食事中のクチャ音」。
うちの家庭では、口を開けて食べる、音を立てて食べる──という行為に対して、ものすごく厳しかったんです。何度も何度も怒られて育ったせいか、大人になった今でも、あの音に強烈な嫌悪感を持ってしまう。
でも、あるとき思ったんです。
「これって、誰にでも共通する“常識”なんだろうか?」
常識って、ほんとうに“社会全体の共通認識”?
この問いに出会ったきっかけは、アインシュタインのこんな言葉でした。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
訳すと、
「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」
僕はこの言葉にゾワッとしました。
私たちが「当たり前」と思っていることの多くは、
実は“社会の常識”というより、“自分が育った家庭や環境の中で刷り込まれた価値観”の延長線なんじゃないか──
そう考えると、「クチャ音NG」も、「食べ方のマナー」も、僕が歩んできた道の中で形成された偏見の一つだったのかもしれません。
偏見=悪、ではない。でも、“無自覚”は危うい
ここで大事なのは、アインシュタインが「偏見=悪」と切り捨てているわけではないということ。
彼が言いたかったのは、
「自分の“常識”が、必ずしも普遍的なものではない」
という自覚を持つことの大切さ。
確かに、誰にでも“偏見”はある。問題なのは、それに気づかず、自分や他人をジャッジしてしまうことなんですよね。
しかも偏見って、感情とセットで根づいていることが多い。
僕にとっての「クチャ音」もそう。マナーを知らない人への嫌悪、だらしなさへの拒否……そういった情動が乗っているからこそ、簡単には手放せない。
「常識の見直し」は、自分の世界の再編集
もしも18歳に戻って、“常識”をまっさらな状態から再構築できるとしたら──
僕はきっと、「すべての人が同じ価値観を持っている」という幻想は、早い段階で捨てるだろうと思います。
逆に、「相手は違う常識で育ってきたかもしれない」という想像力。
これはもっと早くから身につけておきたかったなと思います。
だって、“自分の当たり前”が通用しない瞬間ほど、人は戸惑い、摩擦を感じるから。
でもその摩擦の正体が、「偏見の違い」だと気づいていれば、少しだけ余裕を持って受け止められるかもしれない。
限られた世界にいると、偏見は“常識”になる
さらに言えば、育ってきた環境が狭ければ狭いほど、偏見は“真実”として根づきやすい。
一つの文化圏、一つの価値観、一つの家庭しか知らないまま大人になると、それが常識だと思い込んでしまう。これは地方でも都市でも起こりうる現象です。
でも、自分の“見てきた世界”は世界の一部にすぎない。
その前提に立てるかどうかが、僕は人としての成熟に関わってくる気がしています。
偏見に気づけたら、それはもう“学び”になる
偏見に染まってることは、悪いことじゃない。
でも、それに無自覚なまま人と接すると、きっとどこかでズレや衝突が生まれる。
だからこそ、自分の中にある「偏見のコレクション」を時々棚卸ししてみる。
「これって、誰に教わったんだっけ?」
「本当に、いまも大事にしたい常識なんだっけ?」
そんな問いを立てていくことで、常識はもっと柔らかく、呼吸するものになるんじゃないかと思うんです。
そして何より大切なのは、“自分が見てきた世界”を編集し直す自由があるということ。
あなたの常識は、誰から譲り受けたものですか?
そしてそれは、今のあなたにとっても、大切な価値でしょうか?










































