こんにちは、おぐりんです。最近、運動会などの学校行事で「順位をつけない」という動きが広がってきていますよね。競争を避ける。優劣をつけない。一見すると、“やさしい社会”のようにも思えますが、僕はこのテーマ、もっと丁寧に考えるべきだと思っているんです。というのも、僕自身は運動会の競争って、けっこう楽しかった記憶があるからです。順位がつくことにワクワクしたし、「一等賞をとるぞ」と燃えるような気持ちになれたのを覚えています。でも、それはたぶん自分が「早い側」だったから、なんですよね。じゃあ、もし「遅い側」だったら? その楽しさは味わえていたのか?これは、自分の過去を振り返ることで見えてくる問いでした。競争は悪ではない。でも“選ばされる競争”は違う競争そのものが悪いとは、僕は思いません。むしろ、燃えるし、悔しさも糧になる。でも、それって「自分でやると決めた競争」の話なんですよね。サッカー部の試合に出る。マラソン大会に挑戦する。そこには「自分で選んだ」という実感があるからこそ、負けても「くやしい!」という感情が生まれるし、そのくやしさが学びにつながっていく。だけど、運動会って「望んでない人」にも強制される場面が多い。それなのに目の前で順位がつく。そして、「遅い」というレッテルだけが残る。これは“悔しい”じゃなくて、“ただつらい”。この違いは大きいなと思うんです。「グラデーション」がない社会は苦しい人って本来、いろんな“得意”や“表現”の形を持ってると思うんです。走るのが得意な子もいれば、踊るのが好きな子もいる。応援するのが好きだったり、実況したい子もいるかもしれない。でも、運動会っていう一つの枠の中で「速さ」だけが評価軸になると、グラデーションがなくなるんですよね。それって、「誰かの正解」に自分を押し込めることになってしまう。しかも、本人が望んでない競争の中で順位をつけられると、その場に居ること自体が苦しくなる。実際に僕の記憶でも、「順位つけられるくらいなら早く終わってほしい」って思ってそうな子、たくさんいました。競争の熱量を横で見てるのがつらい。応援にも熱が入らない。それは、競争の“設計”にグラデーションがなかったからだと思うんです。自分で「選んだ」競争は、くやしさが学びになる僕は、競争には自己選択が必要だと思っています。「やる」と自分で決めたからこそ、その場に意味が生まれるし、感情も動く。自分で決めたのなら、負けても意味がある。誰かにやらされて負けたら、意味はないどころか、自己肯定感を削られてしまう。だから、「競争が悪い」ではなくて、「競争の設計が問われている」のだと思います。参加の形を選べる。見て楽しむ。応援する。魅せる。演出する。関わり方そのものにグラデーションを持たせる。そうすれば、もっと多くの子が「自分のやりたい関わり方」で輝けるはずです。グラデーションを設計するのが教育者の役割現実問題として、今の学校現場では、こうした多様な設計を毎年アップデートする余裕がないことも多いです。先生の数も足りないし、仕組みの見直しには手間もかかる。でも、僕は思うんです。こういう“グラデーションをつくること”こそが、本当の意味で先生の役割なんじゃないかって。誰もが自己選択できて、自分の形で競争に関われるようにする。そこに教育者の創意や工夫が宿るのだと思います。強制の中で自己肯定感を削らないために教育って、学びを促す場であってほしい。でもその前に、“自己肯定感を守る場”であってほしいとも思います。だから、「強制的にやらせたうえで、自己肯定感を削るようなプログラム」は、やっぱり避けなきゃいけない。選んで競争すること。選んで応援すること。選んで関わること。それらすべてが“スポーツの喜び”であり、“教育の本質”じゃないかと、僕は思っています。これからの運動会は、「答え」じゃなく「設計」を問う場へこれからの教育は、「競争をするべきか、しないべきか」といった二元論では語れません。重要なのは、「どう設計するか」。その場が誰にとっても意味のあるものになるように、関わり方を設計する。公立では難しい部分もあるかもしれません。でも、選択の余白を広げること、そしてその選択をリスペクトすること——。それは、どんな学校でもできるはず。競争の本質は、順位じゃない。「悔しい」と思えることの裏には、「望んで選んだ」という背景がある。その“選んだという実感”をつくることこそが、教育の大切な営みだと思うのです。