
“悔しい”が生まれる競争、“ただつらい”だけの競争──その違いは自己選択にある
公開日: 2025/10/16
こんにちは、おぐりんです。
最近、運動会などの学校行事で「順位をつけない」という動きが広がってきていますよね。
競争を避ける。優劣をつけない。
一見すると、“やさしい社会”のようにも思えますが、僕はこのテーマ、もっと丁寧に考えるべきだと思っているんです。
というのも、僕自身は運動会の競争って、けっこう楽しかった記憶があるからです。
順位がつくことにワクワクしたし、「一等賞をとるぞ」と燃えるような気持ちになれたのを覚えています。
でも、それはたぶん自分が「早い側」だったから、なんですよね。
じゃあ、もし「遅い側」だったら? その楽しさは味わえていたのか?
これは、自分の過去を振り返ることで見えてくる問いでした。
競争は悪ではない。でも“選ばされる競争”は違う
競争そのものが悪いとは、僕は思いません。むしろ、燃えるし、悔しさも糧になる。
でも、それって「自分でやると決めた競争」の話なんですよね。
サッカー部の試合に出る。マラソン大会に挑戦する。
そこには「自分で選んだ」という実感があるからこそ、負けても「くやしい!」という感情が生まれるし、そのくやしさが学びにつながっていく。
だけど、運動会って「望んでない人」にも強制される場面が多い。
それなのに目の前で順位がつく。そして、「遅い」というレッテルだけが残る。
これは“悔しい”じゃなくて、“ただつらい”。
この違いは大きいなと思うんです。
「グラデーション」がない社会は苦しい
人って本来、いろんな“得意”や“表現”の形を持ってると思うんです。
走るのが得意な子もいれば、踊るのが好きな子もいる。
応援するのが好きだったり、実況したい子もいるかもしれない。
でも、運動会っていう一つの枠の中で「速さ」だけが評価軸になると、グラデーションがなくなるんですよね。
それって、「誰かの正解」に自分を押し込めることになってしまう。
しかも、本人が望んでない競争の中で順位をつけられると、その場に居ること自体が苦しくなる。
実際に僕の記憶でも、「順位つけられるくらいなら早く終わってほしい」って思ってそうな子、たくさんいました。
競争の熱量を横で見てるのがつらい。
応援にも熱が入らない。
それは、競争の“設計”にグラデーションがなかったからだと思うんです。
自分で「選んだ」競争は、くやしさが学びになる
僕は、競争には自己選択が必要だと思っています。
「やる」と自分で決めたからこそ、その場に意味が生まれるし、感情も動く。
自分で決めたのなら、負けても意味がある。
誰かにやらされて負けたら、意味はないどころか、自己肯定感を削られてしまう。
だから、「競争が悪い」ではなくて、「競争の設計が問われている」のだと思います。
参加の形を選べる。
見て楽しむ。応援する。魅せる。演出する。
関わり方そのものにグラデーションを持たせる。
そうすれば、もっと多くの子が「自分のやりたい関わり方」で輝けるはずです。
グラデーションを設計するのが教育者の役割
現実問題として、今の学校現場では、こうした多様な設計を毎年アップデートする余裕がないことも多いです。
先生の数も足りないし、仕組みの見直しには手間もかかる。
でも、僕は思うんです。
こういう“グラデーションをつくること”こそが、本当の意味で先生の役割なんじゃないかって。
誰もが自己選択できて、自分の形で競争に関われるようにする。
そこに教育者の創意や工夫が宿るのだと思います。
強制の中で自己肯定感を削らないために
教育って、学びを促す場であってほしい。
でもその前に、“自己肯定感を守る場”であってほしいとも思います。
だから、「強制的にやらせたうえで、自己肯定感を削るようなプログラム」は、やっぱり避けなきゃいけない。
選んで競争すること。
選んで応援すること。
選んで関わること。
それらすべてが“スポーツの喜び”であり、“教育の本質”じゃないかと、僕は思っています。
これからの運動会は、「答え」じゃなく「設計」を問う場へ
これからの教育は、「競争をするべきか、しないべきか」といった二元論では語れません。
重要なのは、「どう設計するか」。
その場が誰にとっても意味のあるものになるように、関わり方を設計する。
公立では難しい部分もあるかもしれません。
でも、選択の余白を広げること、そしてその選択をリスペクトすること——。
それは、どんな学校でもできるはず。
競争の本質は、順位じゃない。
「悔しい」と思えることの裏には、「望んで選んだ」という背景がある。
その“選んだという実感”をつくることこそが、教育の大切な営みだと思うのです。









































