こんにちは、おぐりんです。「Planning is everything. The plan is nothing.」(計画そのものに意味はなく、計画するという行為に価値がある)このアイゼンハワーの言葉、ずっと僕の中に引っかかっていました。そして最近ようやく、言葉の本質が少しだけ見えてきた気がします。結論から言えば、計画とは“未来を制御するためのツール”ではなく、“今の自分の視界を確かめる装置”なのではないかということ。計画は「設計」ではなく「確認」多くの人は、「計画=未来をどう描くか」と捉えています。でも僕にとって計画は、「今、自分がどれだけ見えていて、どれだけ見えていないかを確かめる行為」なんです。進むべき道がクリアに見えているなら、計画は具体的に立てられる。逆に、視界が曖昧であれば、当然計画も抽象的になる。その“解像度”の差異こそが、今の自分を理解する手がかりになります。計画は、外に向けた設計図というより、自分の内面を映す鏡に近いのかもしれません。見えないものをどう扱うかもちろん、僕自身も完璧な計画なんて立てられません。むしろ多くの場合、「計画通りにいかなかった」ことの連続です。だけど、それでいいと思っています。大事なのは、「どこまでが見えていて、どこからが仮説なのか」を自分自身が把握していること。見えていない部分を埋める努力(リサーチや仮定)は必要ですし、同時に「見えないまま進む」ことを受け入れる柔軟さも必要です。つまり、仮説を立てながら、修正可能な前提のもとで進む。それが僕にとっての「planning」の本質です。仮説は、信頼で共有するでは、チームや仲間と進むとき、その仮説はどう共有すればいいのでしょうか?理屈で説明できることは、もちろん言葉で伝えればいい。でも「まだ見えていない」ことに関しては、説明だけでは不安を払拭できない。ここで大切になるのが、“信頼”だと思うんです。リーダーが「この道は正しい」と断言することも時には必要。でもその背景にあるのは、「これは仮説だけど、自分はこれを信じている」という姿勢。その熱量や信念が、共感やワクワクを生み出すんだと思います。だから僕は、「説明できないけど、これは面白そう」と感じたことを、ちゃんと共有するようにしています。仮説を開示することは、間違いを認めることではなく、一緒に問いを楽しむ土壌をつくることだと思っているからです。不確実性を楽しむ文化へ僕が大切にしているのは、「完璧な地図を描く」ことよりも、「変化を前提に、仮説ごと進むチームをつくる」こと。そのために、計画はとても役に立ちます。計画は、“信じる仮説”を形にすることで、他者との認識のズレを減らし、次の一歩を共に踏み出すための言語になる。その意味で、計画は信頼を育てる装置です。たとえ失敗しても、計画があるから修正できる。たとえ見えていなくても、仮説があるから動ける。未来を制御するのではなく、未来を共に“生成”する。そんな文化を育てていきたいし、計画という行為の中に、僕はその芽を見出しています。あなたにとって、「計画」とは何ですか?それは未来を描くためのもの?それとも、“今”を理解する対話?もしかしたら、その問いの立て方自体が、新しいplanningの始まりなのかもしれません。