こんにちは、おぐりんです。イーロン・マスクがこんな言葉を残しています。“Start from first principles, not by analogy.”類推ではなく、第一原理から始めよ。この言葉を初めて聞いたとき、「あ、これって教育にもそのまま当てはまるな」と思ったんです。僕たちは往々にして、「教育とはこういうものだ」と、知らず知らずのうちに既存の枠組みで考えてしまう。でもその枠って、本当に今の時代に合っているのだろうか?今回は、「第一原理思考(First Principles Thinking)」を教育に当てはめて、ゼロベースで学びを見つめ直してみたいと思います。教育の“常識”を分解する第一原理思考の第一歩は、「分解すること」。つまり、既存の仕組みや慣習を一度バラしてみる。たとえば──教えること評価すること学ぶ場所のデザイン子どもと大人の役割こういった要素が教育を構成しているとしたら、それぞれに対して問いを立ててみるんです。「そもそも教えるって、なぜ必要?」「評価って誰のためにあるの?」「“学校”って本当に必要?」当たり前だと思っていたことに、ひとつずつ問いを差し込むことで、思考の余白が生まれてきます。教育の第一原理とは何か?僕自身が出したひとつの仮説は、「教育とは、社会と接続しながら生き方を試すこと」です。だって、僕らは社会に生かされているし、社会で生きるわけですよね。それなのに「教育は社会に出る前の準備期間」として、どこか“社会の外”に隔離されてしまっているように感じるんです。でも本来、学びって社会と切り離せないもの。スーパーで買い物をする中にも、人との対話の中にも、失敗する体験の中にも、“学びの種”はたくさんある。教育を“再構築”する視点第一原理で分解して、本質に立ち返ったら、次は再構築です。今ある“制度としての教育”を否定するのではなく、その外側にも学びがあることを当たり前にしていく。例えば、こんな視点があるかもしれません。「評価」は比較じゃなく、変化の記録として捉える「教える」は一方通行じゃなく、問いを共に探る営みになる「学びの場」は教室じゃなくても成立する。対話や共創の場も立派な教室特に評価の再設計は、テクノロジーの力で可能になってきています。生成AIが学びのプロセスを記録し、内省を支援してくれるような形も、今まさに現実になろうとしています。「自分の中の教育観」を疑うことから始めよう僕自身、教育を語るときにいちばん意識しているのは、自分が“教育を受けた側”として持っている前提をそのまま使っていないか?ということです。知らず知らずのうちに、受けた教育のかたちが“正解”になってしまっていることって、ありませんか?「ちゃんと教えてくれる人がいるのが当たり前」「答えがあるのが安心」「評価されないと成長できない」……そういった無意識の前提を一つずつ取り外していくと、思考が自由になります。それはちょっと怖いけれど、同時にとても開放的でもある。教育は“社会の中にある”という前提から教育とは、制度ではなく生き方だと思います。教える⇔学ぶの構図ではなく、生きる⇔問い直すという動きの中に、学びはある。そしてその学びは、学校の中だけで起こるものではありません。地域に、家庭に、職場に、焚き火のまわりに……。教育は、社会の中にある。そんな前提に立てたとき、きっと「学びをどうデザインするか」だけじゃなく、「社会そのものをどう学びの場として耕していくか」という視点が生まれてくるのだと思います。だから僕は、第一原理から教育を問い直すことが、とてもワクワクするんです。これからの教育にとって必要なのは、“前提のままでいる勇気”より、“前提を疑う勇気”。あなたの中の「教育ってこういうもの」を、一度、ゼロに戻してみませんか?