こんにちは、おぐりんです。数字に“意味”を感じられなくなった瞬間はありますか?私は、大学院で研究に向き合っていたとき、まさにその違和感に何度も出会いました。数字は、ある意味で誠実です。改ざんしない限り、裏切ることはない。けれど同時に、数字はとても"意図的"な存在でもあるのです。どんな目的で、どの構造で、誰が出したかによって、その「客観性」は簡単に形を変えてしまうから。洞察は、数字の“向こう”にあるリチャード・ハミングの有名な言葉に、こんなものがあります。"The purpose of computing is insight, not numbers."コンピューティングの目的は数字ではなく、洞察であるこの言葉が放たれたのは1962年。ですが、その思想は今の時代──AIが膨大な数値を算出し、私たちに提示してくる現代──にこそ重要だと思います。数字は結論ではなく、問いの“媒介”です。私たちの思考を止めるためのものではなく、動かすためのもの。AIや統計が出す数値を信じすぎると、そこに宿る“前提”を見失いがちになります。数字の奥にあるものを見る私は研究の中で、時に自分でも「証明のために数字を用意する」誘惑に駆られたことがあります。もちろん、意図的ではなく無意識のうちに。でも、それは非常に危うい。数字が語るのは現象ではなく、現象をどう見たいかという“人のまなざし”なのです。AIの評価スコア、会社の決算、教育のテスト結果──どれも数字という「客観的形式」をまといながら、実はその裏に“語り手の意図”や“社会のバイアス”を抱えています。数字を読むとは、「その数字を生み出した世界観=エピステーメー」を読むこと。エピステーメー・リテラシーという新しい教養「エピステーメー」とは、簡単に言えば「その時代に人が考えうることの枠組み」です。私たちは何を正しいと信じ、何を証拠とみなすのか。その“枠”を誰が、どう決めているのか──そこに目を向ける力こそ、これからの時代のリテラシーになるのではないかと思います。教育現場でも、ただ正解を出すのではなく、「この数字は何を前提に成り立っているか?」「別の前提ならどう見えるか?」という問いを扱っていくことが必要です。数字の背景には、物語がある私は、数字を読むときに“心のバランス”を取るというより、「この数字が語ろうとしている背景」を丁寧に見ようとしています。なぜこの数字を出す必要があったのか。誰が、何の目的で、どう見せたかったのか。その奥には、必ず人の“願い”や“葛藤”がある。そして、そこを見ようとすることが、倫理あるリテラシーに通じていく。教育もAIも、問いを開くデザインへAIが「正解」を示してくれる時代だからこそ、私たちに求められるのは「問いを立て直す力」だと思います。問いを逆立ててみる。数字の裏側を想像する。あえて断定を避け、複数の解釈を持ち寄る。その“ゆらぎ”の中にこそ、洞察が宿ると私は信じています。これからのAI設計や教育においても、こうした“エピステーメーを問う空間”をつくることが、私の大きな関心であり挑戦です。あなたが次に見る数字には、どんな物語が隠れているでしょうか?そしてその物語が生まれる背景には、どんな世界観があるのでしょう。洞察はいつも、数字の向こう側にあります。