こんにちは、おぐりんです。今回は、「これは言語化しにくい」と感じる感覚について書いてみたいと思います。言葉にするのが得意な僕だからこそ、逆に“言葉にならない”という場面に出会うとき、そこにとても大切なものが潜んでいる気がするのです。言葉にならないことの魅力僕は普段から、なるべく物事を言語化しようとするタイプです。でも最近は特に思います。言語化できないことにこそ、実は大事な意味や魅力があるんじゃないかと。言語化とは、ある意味で「共通認識に落とし込む」ということ。だからこそ、言語化できたものは再現しやすいし、他者にも伝わりやすくなります。でも、逆に言語化しない状態で“残しておく”ことで、そのままの形で残るニュアンスもある。その曖昧さ、あいまいゆえの豊かさにこそ、感情や直感のような“生の輪郭”が宿っているようにも思うんです。また、言葉にしきらない状態というのは、「余白」を残すということでもあります。余白があるからこそ、人はそこに自分自身の感覚や経験を投影できる。完全に言葉で固められたものより、あいまいなままの方が心を動かす力を持つことだってある。ぼんやりと捉える、そして「ふと降りてくる」瞬間僕が大切にしているのは、無理に言語化しようとしないこと。まずは「これは何だろう?」と、現象や感覚を頭の中で文脈として捉える。そうして“寝かせておく”と、ある日ふと腑に落ちるように言葉が降りてくることがあります。まるで、答えのない問いをずっと心のポケットに入れて歩いているようなもの。日々の中で出会う出来事や誰かとの会話が、そのポケットにヒントをくれる。「これはこういうことだったのか」という実感を得られたとき、その瞬間だけが与えてくれる深い納得があります。それは知識というよりも、“感情のかけらに名前がついた”ような感覚です。スポーツの価値は、言葉になるか?最近ずっと気になっている問いがあります。それは、「スポーツの価値はどこにあるのか?」というもの。たとえばAIがすべての答えを教えてくれるようになったとき、「スポーツをする」という行為にどんな意味が残るのか。勝つこと?鍛えること?ルールの中で競うこと?それらを超えて、僕が感じているのは──スポーツとは“答えのない問いに向き合う力”を育てる営みなのではないか、ということ。ただ、それを言葉にしようとすると、急にぼやけてしまう。自分の中には確かにある“感覚”なのに、誰かに説明しようとするとき、それが曖昧になってしまうんです。だからこそ、これは「まだ言葉にならない問い」として、大切にしたいと思っています。問いを持ち続けるということ言葉にしようとしてもうまく表現できないとき、僕は焦らずに“問いのまま抱えておく”ようにしています。その問いに関する何かを、授業で誰かと話す中で、ふと気づくことがあるかもしれない。遊んでいるときにふと閃くこともあるかもしれない。それはつまり、「問いに向き合いながらも、常に“開かれた心”でいること」が必要なんじゃないかと思うのです。そして、その姿勢があればこそ──どこかで言葉が“ふと降りてくる”瞬間が訪れるのだと思います。僕にとって、「問い」とは、“抱えて歩くもの”であって、“答えてしまうもの”ではない場面もある。その問いにふさわしいタイミングで、ふさわしい言葉が降りてくるまで、共に歩く覚悟があるかどうか。まとめ:問いとともに生きる言語化できない問いに出会ったとき、僕はそれを「まだ未完成なもの」とは思いません。むしろ、「これからの自分と一緒に育っていくもの」だと捉えています。言葉にできない問いを急がずに抱えて生きる。そして、誰かとの出会いや出来事の中で、ふとそれが言葉になるのを待つ。それが、僕にとって“考える”ということの本質なのかもしれません。言葉にしきれないものがあるからこそ、僕は問いを手放さない。そして、その問いとともに、今日も歩いています。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です