こんにちは、おぐりんです。今回は「見返りを求めない行動って、本当にあるのか?」という問いから、贈与や利他性について考えてみたいと思います。一見、利他的に見える行動。誰かのために何かをしてあげたはずなのに、どこかで「ありがとう」が返ってこないことにモヤモヤしたり、見返りがないことにがっかりしたり──。そんな経験、きっと誰にもあるのではないでしょうか。「見返りを求める」って、苦しい僕自身、正直に言えば、見返りを求める行動ってしんどいなと思うことがあります。もちろん、ビジネスの世界では対価のあるやり取りは当然あるけれど、人間関係において「これだけやったのに、返ってこなかった」は、すごく疲れる。そんなときに僕は思うんです。そんな小さな自分にはなりたくないな、と。つまり、与えるという行為を「返ってくる前提」でやってしまうと、返ってこなかった瞬間に、それ自体が虚しくなってしまう。だったら最初から、「与えたいから与える」という在り方でいたい。この問いには、自分がどう在りたいか、という自己像への誠実さが問われる気がします。さらに言えば、「与えることを通して何を感じたいか?」という、自分自身の感情の設計にも関わっている気がします。喜ばれることによって得たい“存在価値”や“繋がりの実感”もまた、内側のニーズとして見えてきますよね。見返りを求めるのは、未熟さかもしれないとはいえ──。見返りがないことにガッカリしてしまう自分も、時にはいます。そんなとき、僕が自分にかける言葉は、「ああ、自分はまだ未熟だったな」という、ちょっと照れくさいけど温かい気づきです。それを期待してしまうほどに、まだ自分には余裕がなかった。そんなふうに整理できると、不思議と次のステップに向かえる気がします。この“未熟さの受け入れ”は、自分に対してのある種の優しさでもあり、成長のきっかけになります。未熟であることを恥じるのではなく、「まだ伸びしろがある」と捉える。その柔らかさが、結果として自分を楽にしてくれるんだと思います。器のサイズが、贈与の質を決める贈与という行為を本当に「自由」に行うためには、“余裕”が必要なんだと思います。たとえば、手元に100万円しかない人が、誰かに100万円を与えたら、それは「無理している」状態ですよね。そのとき、見返りがなければ苦しくなるのは当然です。でも、もし1,000万円ある人が100万円を与えたら、どうでしょう?それはきっと、“余白”の中から生まれた行動になる。つまり、「人に与える余裕」は、「自分の余白」からしか生まれない。この視点に立つと、「与える力」を育てるためには、自分の基盤を整えることが最初に来るべきだということが分かります。心、体、時間、経済──あらゆる意味での“自己充足”があってこそ、自然な贈与が可能になる。まずは自分を整える。その先に「自然な利他」があるだからこそ、僕は思います。他人に何かを与えられる人間になりたければ、まずは自分の器を広げること。自分の生活を整え、感情を整え、エネルギーを整える。それができるようになって、ようやく「与えること」に対して、余裕を持てるようになる。贈与や利他という言葉に憧れるのなら、まずは自分自身に手をかけてあげることが、いちばん最初のステップなのかもしれません。誰かを大切にしたいなら、自分自身を大切にできているかどうかを問うこと。無理して与えるのではなく、「与えられる状態」に自分を育てていく。それが、やさしさを持続可能にする方法だと思います。そして、そうやって整った“自分の余白”から生まれた行動こそ、誰のためでもあり、でも最終的には「自分がどう在りたいか」の選択なんだと思います。与えることを誇らしく思える自分でいられたら、それはすでに見返り以上の何かを、きっと自分が手にしているということなのかもしれません。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です