
「普通は〜」というフィードバックが、なぜ人を止めてしまうのか
公開日: 2026/1/25
こんにちは、おぐりんです。
「普通はそう思うよ」
「普通はこうするよね」
フィードバックの場で、この言葉を聞いてモヤっとしたことはないでしょうか。僕は正直、この言い回しに強い違和感があります。というか、最近はほとんど使わないようにしています。
なぜなら、「普通は〜」というフィードバックは、相手の思考も、アウトプットも、一切前に進めないと感じているからです。
行動が起きている時点で、それは「普通」じゃない
そもそも考えてみると、アウトプットや行動が生まれている時点で、その人なりに考えた“結果”がそこにあります。
もし本当に「普通」だと思っていたら、そうは作らないし、そうは行動しない。当たり前ですよね。
つまり、
起きている事象は、その人にとっての思考の最終地点なんです。
それに対して「普通はこう思う」と言うのは、「自分の普通」を後出しで正解として置いているだけにすぎない。
それって、フィードバックとして何をしたいんだろう?と、正直思ってしまいます。
「普通」は一般論じゃなく、ただの主観
よく考えると、「普通」という言葉はとても曖昧です。
・誰にとっての普通なのか
・どの母数での普通なのか
・何を根拠にした普通なのか
これらが一切定義されていないまま使われることがほとんどです。
統計学的に「◯割の人がそう感じる」と言えるなら、まだ議論の余地はあります。でも多くの場合、「普通は〜」の正体は、言っている本人の感覚でしかありません。
それを一般論の顔をして投げてしまうのは、思考の放棄に近い。
浅い、と言ってしまうと強いですが、少なくとも丁寧なフィードバックではないと思っています。
子どもに「普通はそんなことしない」と言う違和感
この違和感は、子どもに向けた言葉でもよく表れます。
「普通はそんなことしないでしょ」
でも、その子は“普通じゃない”からやったわけではありません。その子なりの理由や衝動があって、行動が起きている。
大人の普通を基準に押し付けた瞬間、そこには対話がなくなります。
これは、上司と部下、レビューする側とされる側、あらゆる関係性で同じことが起きていると思っています。
フィードバックは、相手を前に進めるためにある
大事なのは、「正しいかどうか」ではなく、前に進むかどうかです。
「普通は〜」と言われて、
「確かに、自分が間違っていた。次は良くしよう」
と、思考が深まる人はほとんどいません。
むしろ、
・見下された感覚
・バカにされた感覚
・考える気力を失う感覚
こうしたネガティブな感情を生むことのほうが多い。
それは、感情面だけでなく、アウトプットの高度化という意味でもマイナスだと思います。
過去の自分も、やっていた
偉そうなことを書いていますが、過去の僕自身もやっていました。
「普通はこうだよね」と、無意識に使っていた。そのときは、それが相手のためになると思っていたんです。
でも今振り返ると、それは自分の思考を省略し、相手の背景を見ようとしていなかっただけだった。
だからこそ、今は意識的に使わないようにしています。
「普通」を捨てると、対話が始まる
「普通は〜」を使わない代わりに、できることはたくさんあります。
・自分はこう感じた、と主語を自分に戻す
・どこで引っかかったのかを具体的に言語化する
・相手がそう考えた理由を聞く
こうしたやり取りのほうが、圧倒的に建設的です。
フィードバックは、相手を矯正するためのものではなく、思考を一段深めるためのものだと思っています。
「普通は〜」という言葉を手放すだけで、関係性も、アウトプットも、驚くほど変わります。
あなたが次にフィードバックをするとき、ほんの一瞬だけ立ち止まって考えてみてください。
それは、本当に相手を前に進める言葉でしょうか。









































