こんにちは、おぐりんです。社会に生きていると、私たちは数え切れないほどのルールや空気の中で、毎日無数の選択をしています。「自由」とは何か、「従うべきもの」とは何か──こうした問いは一見、抽象的で遠い話に思えるかもしれませんが、実は僕たちのすぐそばにあります。それは、たとえば朝起きて仕事に向かうとき、誰かに何かを言われたとき、自分が何を選び、何を我慢し、何に立ち向かうか。そういう一つひとつの行動の裏に、「自由」と「責任」のバランスがあると僕は思うんです。今回は、freedom(制約からの解放)とliberty(自律的な選択)の違いを軸に、僕自身の経験と実感を交えて「自由と責任のバランス」について深く掘り下げてみたいと思います。「freedom」と「liberty」──自由の定義の違い一般的に、「freedom(フリーダム)」は外的な束縛がない状態、つまり“制限が取り払われた状態”を指します。対して、「liberty(リバティ)」は“自分自身の意志で行動を選択できる状態”を意味し、責任を伴うものとして位置づけられます。freedom:他者や制度からの制限・拘束がないことliberty:社会の中で、自らの選択によって自由に行動すること(責任と表裏一体)僕にとっての「自由」とは何か?僕は「自由」=「好き勝手に生きること」だとは思っていません。自分の人生を自分で引き受ける覚悟、つまり「liberty(リバティ)」の方に、ずっと惹かれ続けてきました。自由とは、「自分で選び、その選択に責任を持つ」こと。それは時に不自由さを伴うし、しんどい決断を迫られることもある。でもその重みを自ら受け入れることこそが、本当の意味での自由なのだと感じています。“自由”という言葉にはどこか軽やかでポジティブな響きがありますが、僕にとっての自由はむしろ、“覚悟”に近いかもしれません。ルソーの言葉に触れて──自由の本質を見つめ直す「社会においては、一般意志に従うことで真の自由を実現できる」 ──ジャン=ジャック・ルソーこの言葉に出会ったとき、心から腑に落ちました。自由を主張するだけでは、社会の中で孤立してしまうこともある。無責任な自由が、結果として自分の可能性を狭めることすらある──だからこそ、「他者とつながる自由」「共にある自由」が必要なんだと、深く実感しました。社会に生きる以上、完全なfreedomは存在しない。でも、liberty──つまり「選び取る力」ならば、僕たちは持つことができる。たとえ制限があっても、自分の意志で選んだ行動には力が宿る。そういう自由があると、僕は信じています。納得して従っているルールと、違和感のあるルールたとえば「おもてなし」の文化は、僕にとって納得して従えるものの一つです。誰かのために動くことが、結果的に自分にも返ってくる。その“循環”の中に身を置くことに、僕は心地よさを感じます。一方で、結婚制度や義務教育など、社会の制度としての“形”には違和感を覚えることもあります。結婚──僕自身は、形式にとらわれた関係性よりも、自由で誠実なつながりを大事にしたいと思っています。でも社会の仕組みは、今もまだ「結婚していること」が前提で構築されている部分が多い。たとえば、子どもが生まれたとき。親が別姓だったりすると、「どうしてお父さんとお母さんは名前が違うの?」と子どもが問われる。こういう場面を見るたびに、「制度に最適化された“普通”って、本当に公平なんだろうか?」と考えてしまいます。義務教育も同じです。学びは人生において非常に重要です。でもその内容や形式が一律すぎるのでは?と思うこともあります。選べる学校、選べる学び方がもっとあってもいい。僕はそんなふうに考えています。受け入れ、適応し、変えるということ世の中には、すぐに変えられないものがたくさんあります。だからといって、何もせず文句ばかり言うのではなく、まずは“受け入れて適応すること”が大事。でもそれだけじゃ足りない。変えられるものは、変えなければいけない。たとえば僕は、学校法人の顧問として教育の現場に関わる機会をいただいています。その中で、「こうあるべき」という形式や枠組みを超えて、生徒一人ひとりの可能性を引き出す教育をどう設計していくか──その問いに真剣に向き合っています。制度を否定するだけでなく、中から理解し、必要な変革を少しずつ積み上げていく。その繰り返しが、社会をより良くする力になると信じています。最後に自由を求めるということは、時に社会との摩擦を生むことでもあります。でもその摩擦の中にこそ、自分の価値観が浮かび上がり、社会に対して新しい視点を提案できるチャンスがあるんだと思います。変えられるものは、勇気を持って変える。変えられないものは、広い心で受け入れる。そしてその両方を見極めながら、自分にできるアクションを積み重ねていくこと──それが、僕にとっての「自由を生きる」ということなのかもしれません。これを読んでくれたあなたにとって、「自由」とはなんですか?一度立ち止まって、自分自身の“自由の定義”を考えてみることから、すべてが始まる気がしています。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です