こんにちは、おぐりんです。現代社会においては「情報公開」や「透明性」が重んじられる一方で、すべてを開示することにどこか怖さやためらいを感じる場面も多いのではないでしょうか?今回は、そんな“オープンネス”をめぐる個人的な視点と揺れについて、言葉にしてみたいと思います。オープンであることは、合理的な選択肢僕にとって「オープンでいること」は、単に“道徳的に良いこと”ではありません。むしろ経験的に「オープンでいる方が結果的に信頼も協力も得やすい」と学んできました。たとえば、ビジネスの場では自分の考えや知識、戦略などをある程度共有しておいた方が、結果的にチームが円滑に動くし、誤解も減る。情報を秘匿して「自分だけが得する」構造は、結局どこかで信頼を削ぎ、損をする──そんな実感があります。つまり僕にとってオープンネスとは、“合理的で戦略的なふるまい”なんです。ただし、それは“自分のため”のオープンでもある。そして不思議なことに、それが“他者の幸福”にもつながる。情報を開くことは、相手に判断材料を与えることでもあるし、余白をなくして信頼を渡す行為でもある。結果的に、相手の幸福度が上がる──その循環が、最終的に自分にも返ってくるのだと思います。でも、感情は別だ。とはいえ、どんなことでもオープンにできるかというと、もちろんそんなことはありません。「実は怖い」「実は悲しい」「実はすごく不安だった」そんな感情は、理性ではコントロールできないものですし、それを言葉にして晒すことは、やっぱりどこか恥ずかしい。プライドが邪魔をするし、自分が弱く見えることへの恐れもある。つまり、僕にとって“オープンにしづらいこと”の多くは、感情の領域にあります。そしてこのとき、「自分の幸福」を守る行為が、他者との関係に距離を生む──そういう場面もあるのだと感じています。「期待に応える自分」と「本音の自分」特に難しいのは、「周囲の期待に応える自分」と「内なる感情を抱える自分」がズレたときです。できるだけ“期待に応える自分”でいたい。でも、そのことで心がしんどくなるようなら、無理せず言葉を閉じることも必要。逆に、閉じたことで後悔することもある。この“曖昧な揺れ”の中で、僕は毎回判断をしています。「言うべきか、言わざるべきか」ではなく、「今、自分の気持ちはどちらに向いているか」その方向に舵を切るようにしています。透明性とは、白か黒かの話ではなく、“今の自分の正直さ”と向き合うこと。それが結果的に他者との信頼を築いていく──そんな感覚があります。経験を通じて学んだ“開き方”過去の僕は、どちらかというと言わないことが多かったです。でも今は、「自分の弱さもなるべく話す方が、人と人との信頼関係が築ける」ことを実感しています。オープンであることは、信頼される側だけでなく、“自分自身の安心感”にもつながってくる。もちろんそれは、どんなことでも話すという意味ではなく、「必要なときに、必要な範囲で、感情を含めた自己を開示できる柔らかさ」を持つこと。その柔らかさが、やがて人と人との関係に温度を生み、良い循環を生むのだと思います。まとめ:開きすぎず、閉じすぎず、今の自分に忠実にオープンネスとは、「常に開く」ことでも「ずっと閉じる」ことでもなく、“揺れながら、その時の自分に忠実であること”。合理性と感情のあいだで揺れる知恵を、これからも育てていけたらと思います。今日の話、皆さんはどう感じましたか?「開く/閉じる」にまつわる自分なりの体験、ぜひ教えてください。