こんにちは、おぐりんです。「“炎上”って、悪なんでしょうか?」「それとも、“正義の浄化”なんでしょうか?」SNS時代を生きる私たちは、誰かが叩かれる瞬間を何度も目にしています。あるときは「それは許されない」と思い、またあるときは「なぜこの人が?」と違和感を覚える。でもそもそも、“炎上”とは何を指すのでしょう?単に「話題になった」「注目された」ことと、社会的に糾弾される“炎上”とは、明確な違いがありますよね。「批判」は必要。でも、「人格攻撃」は違う私はこれまで「これは炎上すべきだった」と感じたことは、ほとんどありません。なぜなら、“批判”という行為は社会に必要でも、“炎上”はほとんどの場合、個人に向けた攻撃になってしまうからです。ある発言や態度に対して、「それは違う」と声を上げることは大事です。でもそれが、人そのものを否定したり、吊るし上げたりする空気になったとき、もはやそれは“議論”ではなくなってしまう。私にとっての“炎上”とは、「健全な怒りの持ち方」を社会が失ってしまった状態、つまり知的敗北なんです。炎上商法は、誰が本当に“負けている”のか最近では「炎上商法」なんて言葉もあるように、炎上を利用して知名度を上げようとする人もいます。でも、それに反応してしまう私たちこそが、ある意味で“負けている”のではないでしょうか。怒りの声を上げることそのものが、結果として誰かの注目や影響力を強めてしまう。つまり、“炎上者”が勝つ構造になってしまっている。そう考えると、安易に乗っからない勇気も、現代を生きる上では必要なのかもしれません。発信者としての責任と、想像力の濃度私はメディアを運営しています。サッカーというスポーツの価値を、選手や指導者の声を通して伝えたいという想いがあります。だからこそ、「炎上」は絶対に起こしたくない。価値を高めるつもりの発信が、誰かを傷つけたり、炎上を招いたりすることは本望ではありません。でも、どれだけ誠実に発信しても、その受け取り方をすべてコントロールすることはできない。誰かが反論し、それに別の誰かが乗っかって、“空気”ができてしまう。そこに、本当に怖さを感じています。炎上が起きたとき、「誰が悪いのか」だけではなく、「なぜこんな空気が生まれたのか」を考える視点を、私たちはもっと持ってもいいのかもしれません。怒り方で、社会は変わる怒ること自体が悪なのではない。でも、「どう怒るか」が社会の空気をつくります。建設的な批判は、相手の存在を否定するものではないし、感情を爆発させるための道具でもない。誠実さと構造理解。そして、想像力。これが、怒りを暴走させないための土台なのだと思います。最後に真の自由とは、人が聞きたくないことを言う自由である──ジョージ・オーウェルでも、その自由を行使するときには、“伝え方”への責任も伴います。私はこれからも、価値を届けたいと思っています。誰かを叩くためではなく、何かを伝えるために。だからこそ、忘れたくないんです。怒るなら、壊すためではなく、築くために。議論を終わらせるのではなく、次の対話を始めるために。