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1992年8月9日、福岡県生まれ。
一般社団法人nukumo代表理事。

「信じる」とは誰の都合か──ツタンカーメンが教えてくれた“神と政治”の間の話

公開日: 2025/12/16

こんにちは、おぐりんです。

先日「MYSTERY OF TUTANKHAMEN | ツタンカーメン展」に行ってきました。
想像以上に面白かったんです。展示の美しさもさることながら、僕の心をつかんだのは「神々の優劣を王が決めていた」という話でした。

つまり、ツタンカーメンという王が“どの神が偉いか”を再定義していたということ。神という絶対的な存在を、人が“決める”ことができるという構造に、強烈な違和感と興味を覚えました。まるで、信仰の中に人間の意志が入り込んでくる瞬間を目撃したような感覚でした。そこに、宗教のリアルさ、そして政治の生々しさを感じたのです。

王が“神を動かす”というリアリティ

古代エジプトでは、太陽・死・復活・正義など、あらゆる自然現象に神が宿ると信じられていました。いわゆる多神教の世界です。町や地域ごとに守護神が存在し、人々の暮らしの隅々まで宗教が浸透していたと言われています。

しかし、ツタンカーメンの父・アクエンアテンの時代に、それが大きく揺らぎます。彼は「太陽円盤アテン」だけを崇拝する一神教を推し進め、長年の多神教の秩序を壊してしまったのです。神殿は閉鎖され、神官たちは力を失い、信仰の中心は一気に塗り替えられました。

この宗教改革は、単なる信仰の転換ではなく、政治的な意味合いが強かったとされています。当時、強大な権力を持っていたアメン神官団の力を削ぐ狙いがあったからです。つまり、宗教そのものが権力闘争の手段になっていたというわけです。

その後、若くして王位についたツタンカーメンは、再び多神教に戻しました。信仰の自由を取り戻したとも言えますが、それは同時に政治的安定のための判断でもありました。神官団との関係修復、社会秩序の回復、そして“王としての正統性”の再構築。

ツタンカーメンの決断は、そのすべてを背負ったものでした。

つまり、神々の優劣が“政治”によって決められていた。そこに僕は、人間のリアリティを強く感じたんです。神の名を借りて権力が動く。信仰の形を変えられるのは、信仰そのものが構造の一部だから。そう考えると、「神を信じる」ことがいかに複雑な行為だったのかが見えてきます。

信じていたのか、それとも利用していたのか

このとき僕の中に生まれた問いは、「ツタンカーメンたちは本当に神を信じていたのか?」というものです。

王たちは神の代理人とされ、碑文や儀礼では熱心な信仰を語っています。しかし、それが“本心”だったのかを知ることは、現代の私たちにはできません。なぜなら、宗教と政治が完全に分かれていなかった時代において、信仰と利用は同じ線上にあったからです。

彼らにとって神は、心の中で祈る対象であると同時に、国家を統治するための秩序の象徴でもあった。だからこそ、王が神を利用していたとしても、それが「信じていなかった」証拠にはならない。むしろ、その両方を同時に生きていたのだと思います。

つまり、「信じていた」と「利用していた」は、当時の文脈では両立していたのだと思います。王は神を語りながら政治を行い、政治を行うことで神を体現していた。その構造の中で、“信仰”は個人の心情ではなく、社会を動かす秩序そのものだったのではないでしょうか。

たとえば、王が「ラーの子」として描かれたのは、単なる比喩ではなく政治的メッセージでもあった。神と人間をつなぐ存在として自らを位置づけることで、支配の正当性を生み出す。そのプロセス自体が、信仰であり、同時に利用だったのです。

「信じる」という行為の設計

展示を見ながら感じたのは、信仰とは「信じたい」という気持ちだけで成り立つものではない、ということです。そこには常に、構造や力学が存在している。誰が信じるか、何を信じるかよりも、その“仕組み”を誰が設計したのかが、信仰の方向性を決めてしまうことがある。

アクエンアテンの一神教も、ツタンカーメンの多神教も、どちらが正しいかという話ではなく、“信じる仕組み”を誰がデザインしたのかという問いなんですよね。王が神を定義し、神官が制度を整え、人々がそれを信じる。信仰とは、ある意味で社会のインフラだった。

そしてそれは、今の社会にも通じる気がします。理念や思想、正義と呼ばれるものの多くも、誰かの設計のもとに成り立っている。信じるという行為には、いつも「誰の都合か」という問いが潜んでいる。信仰を「信じるもの」として見るだけでなく、「構築されるもの」として見ることで、初めてその輪郭が見えてくる気がします。

まとめ──“信じる”を見つめ直す

ツタンカーメン展を通じて感じたのは、神話や歴史の向こうにある人間の生々しさでした。神を信じることも、神を利用することも、結局は人間の営みの一部なんですよね。信仰は静的なものではなく、常に人間によって再構築され続けてきた。

信じるとは、純粋な心の行為であると同時に、構造の中で生きる行為でもある。だからこそ、その構造を知ろうとすることが、“信じる”をもう一度自分のものにする第一歩なのかもしれません。ツタンカーメンの時代から何千年経った今も、人は何かを信じ続けている。その根底にあるのは、たぶん「生きる意味を見出したい」という普遍的な欲求なんだと思います。

ツタンカーメンの展示を見て感じたのは、古代の人々が信仰を通じて世界を理解しようとしていたこと、そして現代の私たちもまた、別の形で同じことをしているということです。信じるとは、時代を超えて人間が繰り返す営みなのかもしれません。

あなたにとって、“信じる”とは誰の都合ですか?

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「信じる」とは誰の都合か──ツタンカーメンが教えてくれた“神と政治”の間の話

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