ボールや道具、資金を持ち寄り、透明な器を囲む人々

復興支援に感じた違和感。善意を募るなら、お金の使い道まで伝えてほしい

公開日: 2026/11/6

こんにちは、おぐりんです。

復興支援を掲げた企画を見て、うまく言葉にできない違和感を覚えました。子どもたちに経験を届ける。選手と出会える場をつくる。活動そのものには価値があると思う。それなのに、素直に「協力したい」とは思えなかったんです。

誰かを批判したいわけではありません。主催者の本心も、出演者がどういう条件で参加しているのかも、僕には分からない。ただ、「僕はこの形が好きではない」という感覚が残りました。その理由を、少しずつ考えてみました。

お金を集めることに、引っかかったわけではない

最初に整理できたのは、お金を集めることにも、仕事に報酬を払うことにも反対していない、ということでした。

支援を仕事として担い、現場で働き続けている人には、十分な給与を払ってほしい。寄付したお金が、その人たちの給与になることにも違和感はありません。必要な仕事を続けられるようにすることも、大切な資金の使い道だと思います。

交通費や宿泊費、食費もそうです。力を貸したい人が、無理なく現地へ行けるようにする。僕は、支援する人に自己犠牲を求めたいわけではありません。

引っかかったのは、普段は別の仕事をしている人たちが、単発の企画で「復興のために協力してください」と呼びかけ、その資金を出演料にも振り向ける、という組み合わせでした。

講演やサッカーのクリニックを仕事として依頼し、出演料を払う。それ自体なら、普通の仕事だと思います。でも、復興支援への共感を募って、そのお金から出演者への対価を出すと聞くと、僕の中では意味が変わってしまうんです。

それぞれが、できることを持ち寄る場だと思っていた

例えば、企業が資金を出し、選手が時間や技能を差し出し、運営する人が企画や準備を担う。全員が同じものを出す必要はありません。それぞれにできることが違うから、協力できるのだと思います。

選手には、会いに来て、一緒にボールを蹴るだけで、子どもたちを元気にできる力があります。僕はFootballcoachというメディアを運営する一人として、その力に価値を感じています。

だからこそ、復興支援という場では、その力をできる範囲で差し出してくれたらうれしい。何週間も現地にいてほしいという話ではなく、一日でも、数時間でもいい。無理なら、参加しないという選択があってもいいと思っています。

その一方で、資金を出す人には善意を求め、出演する人には報酬を用意する。その役割の違いが曖昧なまま、皆が「支援する仲間」として語られているとしたら、僕は気持ちを託しにくい。

活動の価値がなくなるわけではありません。ただ、せっかく価値のある活動なのに、協力の募り方によって、集まるはずの共感まで取りこぼしてしまうのではないか。そんなふうに感じます。

対価を伴わず差し出すボールと、仕事の条件を示す帳簿を分けて描いたイラスト

お金が加わると、行為の意味も変わる

以前、このブログでも市場規範と社会規範について書きました。対価を決めてやり取りする関係と、好意や信頼をもとに力を貸す関係では、同じ行動でも受け止め方が変わる、という話です。

今回、考える手掛かりになったのが、哲学者マイケル・サンデルの議論でした。サンデルの講演では、市場での取引が公平かどうかという問題と、お金で取引することで、その行為の価値が損なわれる問題が区別されています。

僕の違和感も、そこに近いのかもしれません。同じ選手が来て、同じ時間を過ごし、子どもたちが喜ぶ。その結果が同じでも、自分の力を差し出したのか、仕事として依頼を受けたのかによって、僕がその場に感じる意味は違います。

これは、支援と仕事を完全に分けられる、という話でもありません。寄付で有料のサービスを届ける仕組みに、納得する人もいるはずです。「誰かが対価を受け取っていても、現地の人に価値が届くならよい」という考えも分かります。

それでも僕は、何が贈られ、何が仕事として提供されているのか、その区別を大切にしたい。結果だけでは表せない、協力する側の気持ちもあると思うからです。

出演料を払うなら、いくらなのかも伝えてほしい

では、報酬があったら一切協力しないのか。考えているうちに、そこも少し違うと気づきました。

「出演料として一人いくらを支払います。忙しい中、この時間を確保してもらうために必要だと判断しました。その条件を含めて、この企画に協力してもらえませんか」と説明されれば、少なくとも、何に協力するのかを判断できます。

そこで僕が納得するかは、また別です。でも、金額と理由を開いて説明する姿勢には、向き合えると思います。

「出演料に使います」という項目があることと、誰にいくら渡り、なぜその支出が必要なのかが分かることには、距離があります。復興への善意を募るなら、寄付金や支援金の使い道について、できるだけその距離を小さくしてほしい。

僕が自分に問いたいのは、その報酬額を、協力をお願いする相手に説明できるか、ということです。「これを伝えたら協力してもらえないかもしれない」と感じるなら、そのためらいは、企画を考え直す手掛かりになるはずです。

もちろん、実際に誰かが金額を隠そうとしている、と言いたいわけではありません。相手の意図は分からない。それでも、自分が企画する立場なら、説明しにくい部分を曖昧にしたまま、気持ちだけを集めることはしたくないと思います。

正しさを決めるより、自分のやり方を決めたい

ここまで考えて、僕自身は復興のために何ができているのか、とも思います。胸を張って十分にできているとは言えません。誰かの活動を見て、自分の方が立派だと言える話ではないんです。

それでも、自分が協力するかどうか、自分が企画するならどうするかについては、基準を持っていたい。

僕が復興支援を呼びかけるなら、まず自分が無理なく差し出せるものを考えたい。集めたお金をどこへ届け、どんな対価を払うのかも、説明できる形にしたい。そのうえで、納得した人に参加してもらいたいと思います。

「僕はこの形が好きではない」。最初は、それだけでした。言葉にしてみると、守りたかったのは、お金を介さずに差し出せるものの価値と、人の気持ちを託してもらうときの誠実さだったのかもしれません。

支援の形は一つではないのでしょう。僕は、自分が気持ちよく差し出せる形を選びたいし、人に協力をお願いするときにも、その気持ちを大切にしたいです。

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