こんにちは、おぐりんです。「体罰は、受けたことがある人しかやらない」──この言葉をきっかけに、今回は“体罰の連鎖”について考えてみたいと思います。体罰は減少傾向にあると言われますが、教育現場やスポーツ指導、家庭など、私たちの身近なところで今もなお起こっています。そして何より問題なのは、それが"繰り返されている"ということ。なぜ体罰はなくならないのか。どうすれば断ち切ることができるのか。その問いに、私自身の体験と考えを交えて掘り下げていきます。経験が「選択肢」をつくる私自身、学校でも家庭でも、体罰を受けて育ちました。当時は“しつけ”として正当化される空気がありましたが、今振り返ってみると、叩かれて得た学びなどなかったと断言できます。体罰をする人は、多くの場合「それ以外の方法」を知らないのだと思います。自分が育つ中でその手段が“有効”だと教え込まれてしまったから。その手段を「無意識に持っている」から。頭では「いけない」と分かっていても、感情が爆発した瞬間に“使ってしまう”。これはまさに、暴力の連鎖です。ただ、ここで強調しておきたいのは、私は体罰を受けたことで育った今の自分に、一定の感謝も抱いているということです。私の親が私にしてくれたすべてが悪だったわけではありません。それでも、体罰そのものは明確に「良くなかった」と思っていますし、他の誰かが同じことをしていたら、私は絶対に止めるでしょう。そして、私自身が“体罰をする側”に立つことは絶対にありません。怒りで人は変わらない──防衛機制としての体罰学術的にも、体罰や感情的な叱責は「学び」を生み出さないことが明らかになっています。たとえば、アメリカの心理学者エリザベス・ガーショフが行った大規模メタ分析では、体罰は子どもの行動改善には結びつかず、むしろ攻撃性や反社会的行動を助長し、親子の信頼関係や心の健康を損なうことが示されました。精神分析の観点から見ると、怒りや不安といった制御できない感情を、子どもという“弱い対象”にぶつける行為は、「攻撃的置き換え」という防衛機制の一種にほかなりません。また、指導者が自身の焦燥感や無力感を「子どもの問題」にすり替えてしまう「投影」も、日常的に起こっているのです。これらはすべて、自分自身が過去に受けた抑圧や不安を繰り返し演じるにすぎず、教育の名を借りた「感情のはけ口」に過ぎません。では、こうした状況下で子どもたちは何を感じているのでしょうか?叱責を受ける瞬間、彼らに残されるのは「ただこの場から逃れたい」という切実な回避欲求だけです。そこに「なぜ叱られているのか」を振り返る余裕はなく、行動が一時的に止まっても、真の学びにはつながりません。私たちがまず理解すべきは、恐怖や怒りで得られるのは「行動の抑制」だけであり、学びの芽はそこで枯れてしまうということです。そしてその先にあるのは、子どもの自己肯定感や自主性、さらには人間関係の豊かさを育む別のアプローチ──共感と対話に基づく指導です。真の成長を支えるために、まずはこの「回避欲求」のメカニズムをしっかり押さえましょう。怒りをどう扱うか私が意識しているのは、「怒り」をコントロールすることではなく、「選択肢を増やす」ことです。子どもが問題行動を起こす背景には、必ず理由があります。その理由は自分の想定と違うからこそ問題に見える。だからこそ、ヒアリングし、相手の思考を探る力=コーチング力が必要だと感じています。感情を感じることは自然。でも、それをどう扱うかが、人としての成熟に繋がると信じています。怒りに呑まれるのではなく、怒りを手放すことは決して「弱さ」ではなく、「新しい選択肢を持つ力」なのだと信じたいのです。メディアの限界と、それでもできること私が運営するメディア「Footballcoach(フットボールコーチ)」でも、セーフガーディングなどの啓発企画を行っています。ですが、こうした企画を“体罰をしている人”が見てくれるとは限りません。むしろ、届かないことの方が多いと感じています。だからこそ、届く可能性のある人に向けて、“なぜ体罰はダメなのか”を、理論的・感情的・中長期的に語れる土台を社会全体で育てる必要があると思っています。そして何よりも、「怒らない教育」の実践者が孤立しないよう、共感と知識で支える環境が必要です。怒らずに伝えようと努力する人を、社会が当たり前に評価できる仕組み。これが、暴力の連鎖を断つための“土壌”になると私は信じています。小さな積み上げが、連鎖を断つ私は「体罰をなくせる」と簡単には思っていません。ただ、自分が体罰を経験したことがあるからこそ、「それを繰り返さない努力」はできるし、誰かにも伝えられると思っています。変わらない人を無理に変えることはできない。でも、“変わろうとしている人”を支えることはできる。その積み上げの中にこそ、暴力の連鎖を断ち切る希望があると信じています。あなたの周りに、悩んでいる人がいたら、どうかこの言葉を届けてください。「怒りでは、何も変わらない。けれど、言葉なら変えられるかもしれない。」