こんにちは、おぐりんです。今回は「意味がないけど楽しいこと」について、自分の感覚を通して書いてみたいと思います。私たちの暮らしは、つい“意味のあること”“成果が出ること”ばかりに目がいきがちです。何かを成し遂げる、誰かの役に立つ、結果を出す──それはもちろん大切なこと。でも、そこにばかり意識が集中しすぎると、心がすり減ってしまうこともある。そんな中でふと立ち止まって感じたのが、「意味なんてないけど、なんか楽しい」瞬間の価値です。それがどれだけ自分を支えてくれているかを、最近あらためて強く実感するようになりました。「意味なんてないけど、なんか楽しい」私がそう感じるのは、日々のシェアハウスでの生活の中です。私は、nukumo houseというシェアハウスを運営しています。記事:ルールなし、自由に助け合う──nukumo houseが紡ぐ5年の物語他愛もない会話。しょうもない話で笑っている時間。誰がどんな夢を見たとか、最近ハマっている駄菓子とか、もはや何も生み出していないのに、笑いが起きる。誰かの話に誰かが突っ込んで、誰かが爆笑して、そして全員でうなずいている。そんな時間に、私はしょっちゅう「これだな」と思うんです。意味なんてない。でも、それがいい。意味のなさを抱きしめられる時間って、ある種のぜいたくなのかもしれません。そしてその笑いが、“場”をゆるませ、“人と人”の間に安心を生み出してくれているのだと思います。笑うこと、それ自体が価値だと思う「笑うって、生きる上で大切だな」と、最近よく思います。たぶん、“何を得たか”よりも、“どれだけ笑えたか”のほうが、日々のクオリティを決める気がしていて。笑える時間があるということは、気持ちに余裕があるということ。気持ちに余裕があるということは、心が守られているということ。そしてその余白こそが、新しい発想や、人とのつながり、安心感を生む土壌になっているんだと思います。大きな夢や目標を持っている人ほど、こういう“意味のない笑い”を意識的に確保しておくことが、大事なのかもしれません。目に見えないけれど、心を支える大きな支柱になるから。一緒に笑える「誰か」と、日常を共にしたいこうした“意味のない楽しさ”をこれからも持ち続けるには、たぶん「人との関係性」がカギになると思っています。私は「日常を共にする人の数」が大事だと思っていて。それは、シェアハウスの住人に限らず、仕事で関わる仲間もそうです。単なる業務連絡や会議だけじゃなくて、「最近どう?」「昨日あれ食べたんだけどさ」「あれ観た?」みたいな、雑談や何気ない報告。そういう日常の共有が、笑いを生み、距離を近づけ、信頼関係をじわじわと育ててくれる気がしています。つまり、笑えるというのは“関係の証”でもあるんですよね。「言葉を交わす」だけでなく、「感情を交わせる」間柄が、笑いを可能にするんだと思います。まとめ:「意味がない」ことの中に、人生の温度が宿っている“意味がないけど楽しい”という時間は、もしかしたら日々のバッファなのかもしれません。スケジュールに追われていたり、目標に向かって突っ走っているときこそ、ふとした雑談や、しょうもない笑いが、自分の体温を守ってくれる。それって、成果でも実績でもなく、“人間らしさ”そのものなんですよね。だから私はこれからも、ただ笑うための会話を大切にする意味のない雑談を、意味のある関係に育てていく一緒に日常を過ごす仲間を増やし続ける「笑えること」に罪悪感を持たないでいるそんな時間の使い方を、無駄だとは思わないでいたいと思います。それってつまり、「自分の心にとって意味がある」ってことだから。そして、いつか振り返ったとき、「あのしょうもない会話があって、ほんとよかったな」と笑える人生を歩んでいたいと思います。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です