こんにちは、おぐりんです。今回は、アドラー心理学における重要なテーマでもある「頼ること」と「依存すること」の違いについて考えてみたいと思います。頼るとは、自立した個が自分の意思で助けを求めること一方で、依存とは、自分の責任や意思を他者に預けてしまう状態。この境界線はとても曖昧で、時に見誤りやすいからこそ、あらためてその違いを言語化してみたいのです。頼られるのは嬉しい。でも依存は違うまず、頼られるというのは基本的には嬉しいことです。それは「信頼されている」「頼りにされている」という肯定感につながるからです。しかし、それが“依存”になると、状況は変わってきます。私は組織の代表という立場柄、頼られることも多くあります。そして、たとえ依存されても個人的な不快感は少ないのですが、それが組織として続くと「これは健全な状態ではない」と本能的に感じるようになります。頼られる関係は「一時的な補完」であり、依存的な関係は「主体性を手放す慢性的な依頼」なのです。だからこそ、頼ることは大歓迎ですが、依存にならないような関係性──つまり、お互いが自立したうえで助け合える環境をつくっていくことが大切だと思っています。それに加えて、頼ることで生まれる信頼感やつながりは、チームの文化や空気をも変えていきます。「助けを求めてもいいんだ」という風土は、組織の心理的安全性を高める上でも非常に重要です。だからこそ、私はただ“頼られること”を受け止めるだけでなく、“どう頼られるか”を常に自問しながら関係を築くようにしています。意志が宿っているか?責任の矢印はどこか?「これは依存かもしれない」と感じる場面には、いくつか共通点があります。それは、「自分の意思を持たず、ただ前例や他人の判断に委ねる」という姿勢です。「とりあえず聞いておこう」「前回もそうだったから今回も」──そんな態度には、自分の中での咀嚼や判断が見えません。さらに、得られたアドバイスやフィードバックに対して、うまくいかなかったときに「自分ではなく、相手のせい」にしてしまうとしたら、それはもう“依存”の構造に入ってしまっていると思います。これはとてもグラデーションがある話で、私自身もまだ明確に線引きできていないところです。ただ、意識が宿っているかどうか、そして“責任の矢印が自分にあるかどうか”というのは、判断の軸になると感じています。また、依存と頼るの違いは、「行動の主体がどこにあるか」という視点でも見えてきます。自ら選んで誰かに助けを求めるのか、それとも「自分ではどうにもできないからお願い」と丸投げするのか。この違いが、相手との信頼関係や、対話の質にも直結してくるのです。頼ることの美しさは、「重なり合うこと」にある人の力は、ひとつで完結するものではありません。1人の「1」は、どんなにすごくても1です。でも、それが他の「1」と重なると、それは“ただの足し算”ではなく“励まし”や“連帯”といった、新しい価値を生み出していきます。たとえば、自分がまだ10の力しか持っていないとしても、それを10人が持ち寄れば100になります。そしてそれは、1人で100を持つ天才にも負けない価値を発揮できるのです。ここに、頼ることの本当の美しさがあるのだと思います。「私はあなたに頼る。でも、それは私の意志で選んでいる」この姿勢があってこそ、“自立”と“つながり”は両立できます。だからこそ私は、助けを求めることを恥じるのではなく、「自分の人生を主役として生きる中で、誰かと重なり合う」──そんな共同体的な在り方にこそ、希望を感じるのです。さらに言えば、「頼る」という行為は、相手に対して敬意を払うことでもあります。自分ができないことを素直に認め、相手の力を信じる。そこには“支配”や“依存”ではなく、“信頼”がある。だからこそ、頼ることは人と人との距離を近づけ、関係を深める力にもなります。まとめ:「つながり」と「責任」を両立させる頼ることと依存することは、似て非なるものです。頼る:自分の意志と責任を持って、他者に力を借りる依存:自分の選択や責任を他者に預けてしまうアドラーは“共同体感覚”を大切にしました。それは「自立した人同士が、支え合い、重なり合う」という関係です。私たちも、自分という1を持ち寄りながら、お互いを主役として認め合える関係性を育てていけたらと思います。今日も、頼ることを恐れず、でも依存には流されずに、“つながりの美しさ”を信じて生きていきたいですね。誰かに頼ることは、勇気の証。そして、頼られることは信頼の証。そのどちらにも、誇りを持っていたいと私は思います。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です