
やりがい搾取と、情熱の違いを言語化してみる
公開日: 2025/5/28
こんにちは、おぐりんです。
今回は「やりがい搾取ってどこから?」というテーマで、僕自身の体験や周囲を見てきた中で感じたことを通じて、“やりがい”と“搾取”の違いについて考えてみたいと思います。
このテーマは、特に若い世代や現場で人を巻き込む立場にいる人たちにとって共感度が高いものです。
「熱意を活かす」と「利用される」の境界線はどこにあるのか?
そんな問いに向き合う時間にしていけたらと思います。
「やりたいこと」を理由に、やりたくないことまで背負わせていないか?
まず、僕自身が「これはやりがい搾取だったかも」と感じた経験について。
僕が感じるやりがい搾取とは、「本人がやりたいと言ったことを動機にして、それ以外の“やりたくないこと”をやらせる構造」です。
例えば、あるプロジェクトで「こういうことをやりたい」と伝えたら、
「それなら、これもお願いできるよね?」と、明らかに別軸の仕事まで渡される。
一見“期待”に見えて、実は“利用”されている。
これは、熱意を理由にしているから断りづらくなる。
自分の「やりたい」に責任を取らされている感覚になるんです。
つまり、やりがい搾取とは“本人の意思”をねじ曲げて、その熱意に付け込む構造。
搾取かどうかを見極めるための問い
搾取かどうかは、お金の有無ではなく、“自由意志があるか”どうか
「本人のやりたいこと」か、「期待に応えるための義務化」か
ボランティアもそうですが、無償であることが必ずしも搾取ではない。
むしろそこに自分の納得と選択があれば、やりがいは“純粋なエネルギー”になります。
「やりがいがあるのに搾取じゃない」瞬間も確かにある
僕自身、無報酬でも「やりたいからやる」ことは多々あります。
行きたい場所がある
会いたい人がいる
経験したいことがある
そんな時、お金は“目的”ではなく、“手段”でしかない。
そして、こうした選択において僕が大事にしているのは、
「納得できるかどうか」です。
お金をもらえない環境でも、
自分の経験になる
自分の視野が広がる
未来に生きる投資になる
そう思えれば、報酬がなくても「損した」とは思わない。
一方で、“お金が生まれているのに、自分に還元されていない構造”だった場合、それは明確に搾取です。
誰かが利益を得ているのに、自分だけが無償
正当に支払うべき費用を「やりがい」という言葉で済ませる
これは絶対に許されるべきではないと、僕は考えます。
やりがいを守るために、搾取を見抜く視点を持とう
ここまで話してきたように、やりがい搾取の問題は単に「お金が出ているかどうか」ではありません。
「やりがいを活かす」社会であるためには、やりがいを“乱用されない”ように守る仕組みが必要です。
大切にしたい3つの視点
本人に選ぶ自由があるか
構造的に搾取が起きていないか
「やりたいこと」がいつの間にか「やらされること」になっていないか
やりがいを持って働く人が、安心してその熱量を注げる社会であるためには、
僕たち自身が“やりがい”をどのように使い、受け取り、共有しているのか──その構造を点検することが必要です。
僕は、やりがいを持って働く人たちが安心してその熱量を注げる社会であってほしいと願っています。
だからこそ、「搾取」を否定するだけでなく、「やりがい」を肯定するために、構造を整える必要があるのだと思います。
自分がやっていることに胸を張れるか?
それが、やりがいと搾取の違いを見極めるための、最初の問いかもしれません。
そしてもし、今どこかで「これ、やりがい搾取かもしれない」と感じている人がいたら、
それを一人で抱えずに、誰かと対話してみてほしい。
情熱は、誰かに利用されるためにあるんじゃない。自分の人生を豊かにするためにある。
そう思えたら、きっと一歩踏み出せると思うんです。
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