
他者を思えるのは、“自分の定義”が広がったとき
公開日: 2025/5/29
こんにちは、おぐりんです。
今回は「自分より他人を優先するのが美徳って、いつからそう思わされてきたんだろう?」という問いをきっかけに、僕自身の行動や感覚を掘り下げながら、「利他」や「自己犠牲」について考えてみたいと思います。
このテーマはきっと、多くの人が一度は感じたことのある違和感に触れているはず。
「自分のことより他人を優先すべき」「人に譲るのがいい人」そんな“空気のルール”が、無意識に自分の中に刷り込まれているかもしれません。
自分のために、他人を優先していた?
正直に言うと、僕はこれまで何度も「自分より他人を優先した行動」をしてきました。
でも振り返ってみると、それって本当に“他人のため”だったのか?というと、答えはちょっと違うかもしれません。
たとえば、誰かを助けたとき、「ありがとう」と言われると嬉しい。
困っている人に手を差し伸べたとき、「かっこいい自分」でいられる気がする。
そんな感覚の根底には、「自分の承認欲求を満たす」「“良い人でありたい”というアイデンティティを守る」といった、自分のための理由があるように思うんです。
一見、自己犠牲のように見える行動も、実は“自分の気持ちよさ”を満たすためだった。
もちろんそれを悪いことだとは思っていません。
むしろ、そういう構造を正直に見つめ直すことが、僕にとってはすごく健全なことだと感じています。
「自分」が広がったとき、自然に他者へ向かう
でも、そんな僕の中である時から少しずつ変化がありました。
それは、「他者の幸せが、自分の幸せに直結している」と本気で思える人が増えてきたときです。
その人が喜んでいると嬉しい。
その人が悲しんでいると、自分も心が苦しくなる。
こうした感情の動きは、「他者」ではなく、「“自分の一部”としての他者」に対して起こるものなんだと思います。
つまり、「自分の定義」が広がったとき、自分の行動は自然と他者に向かう。
それは決して義務でも、美徳でもない。“その人が大事だから、自分のことのように動いている”という感覚です。
“美徳”に縛られず、自分の感覚に正直でいたい
この話から僕が思うのは、
「自分より他人を優先するのが美徳」というルールそのものが、もう少し柔らかくなってもいいんじゃないか、ということです。
誰かを優先したとき、その理由がたとえ“自分のため”だったとしてもいいじゃないか。
そこに正直さと納得があるなら、それも立派な“利他”のかたちだと思うんです。
そして何より、「自分の定義」を広げていけるような人間関係を築いていくことこそが、
“自然に他者を思える”ことにつながるのではないか──そんな風に感じています。
あなたはどうですか?
誰かのために動いたとき、そこにどんな「自分」がいたでしょう?
本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です










































