こんにちは、おぐりんです。今回のテーマは、哲学者・鷲田清一さんのこの言葉。「“考え続ける”ことは、時に“疑い続ける”ことでもある。」――鶴田清一 (哲学者)この言葉には、「考えること」=「疑うこと」という、哲学的でありながら実践的な視点が込められています。私にとってこの言葉は、まさに「教育」と向き合う姿勢そのものと重なりました。「考えるほどわからなくなる」教育の本質私は、教育というテーマを自分の人生の問いとしてずっと抱えてきました。しかしこのテーマは、考えれば考えるほど複雑で、正解が見えなくなる。「何が良い教育か?」「どうすれば届くか?」様々な情報や立場の声に触れるたびに、「これは正解かもしれない」→「いや、見えていなかった視点がある」の繰り返しになります。それはまさに、“未踏領域が見えていく”というプロセス。考えるほど、自分の無知や限界が明るみに出てくるのです。そして私は気づきました。「考える」とは、問いを深めることであり、自明を疑うことでもあるのだと。行動と疑いをどう共存させるかとはいえ、動くには何かを信じなければいけない場面もあります。私はこう考えています。「信じることで行動する。そして、動きながら問い続ける。」この往復運動こそが、私にとっての「考え続ける」という営みです。仮に信じて跳ぶ。でも空中にある足場を確かめるように、「本当にこれでよかったのか?」と問い続ける。それは不安定のようでいて、実はとても柔軟な構造です。なぜなら、変わり続けられる勇気が、そこにはあるから。「信じすぎた過去」からの転換かつての私は、根拠なき自信で突き進むタイプでした。「俺はできる。理解できないのはあなたのせい」──そんなふうに思っていた時期も正直あります。でも同じような失敗が続いたとき、否応なく気づかされるのです。「あれ、自分の前提が間違ってたのでは?」そうして今度は、すべてを疑うモードに入る。すると、動けなくなる。このトレードオフを何度も経験しました。でも今は、少しずつわかってきたんです。信じる ⇄ 疑う は、“どちらが正しいか”ではなく、“行き来する構造”そのものが大切なのだと。そして、その行き来のなかで、「ちょうどいい場所=ニュートラルな姿勢」を探し続ける。それが、考え続けるということなのだと、今では思えています。まとめ:問いを持ちながら、変わり続ける勇気を哲学的に見れば、考えるとは常に自分の足元を疑う行為。そして実践的に見れば、動くには信じることが必要。この一見矛盾するような両者を、往復し続けることこそが「教育」と向き合う態度なのかもしれません。鷲田清一さんの言葉──「“考え続ける”ことは、時に“疑い続ける”ことでもある。」私たちはそのプロセスを恐れず、むしろ受け入れながら、自分の問いを更新し続けていきたい。信じて動き、疑いながら進む。それが、私にとっての「考え続ける」ということです。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です