
信じて動き、疑いながら進む──教育という問いの中を歩く
公開日: 2025/6/20
こんにちは、おぐりんです。
今回のテーマは、哲学者・鷲田清一さんのこの言葉。
「“考え続ける”ことは、時に“疑い続ける”ことでもある。」
――鶴田清一 (哲学者)
この言葉には、「考えること」=「疑うこと」という、哲学的でありながら実践的な視点が込められています。
私にとってこの言葉は、まさに「教育」と向き合う姿勢そのものと重なりました。
「考えるほどわからなくなる」教育の本質
私は、教育というテーマを自分の人生の問いとしてずっと抱えてきました。
しかしこのテーマは、考えれば考えるほど複雑で、正解が見えなくなる。
「何が良い教育か?」「どうすれば届くか?」
様々な情報や立場の声に触れるたびに、「これは正解かもしれない」→「いや、見えていなかった視点がある」の繰り返しになります。
それはまさに、“未踏領域が見えていく”というプロセス。
考えるほど、自分の無知や限界が明るみに出てくるのです。
そして私は気づきました。
「考える」とは、問いを深めることであり、自明を疑うことでもあるのだと。
行動と疑いをどう共存させるか
とはいえ、動くには何かを信じなければいけない場面もあります。
私はこう考えています。
「信じることで行動する。そして、動きながら問い続ける。」
この往復運動こそが、私にとっての「考え続ける」という営みです。
仮に信じて跳ぶ。
でも空中にある足場を確かめるように、「本当にこれでよかったのか?」と問い続ける。
それは不安定のようでいて、実はとても柔軟な構造です。
なぜなら、変わり続けられる勇気が、そこにはあるから。
「信じすぎた過去」からの転換
かつての私は、根拠なき自信で突き進むタイプでした。
「俺はできる。理解できないのはあなたのせい」──そんなふうに思っていた時期も正直あります。
でも同じような失敗が続いたとき、否応なく気づかされるのです。
「あれ、自分の前提が間違ってたのでは?」
そうして今度は、すべてを疑うモードに入る。すると、動けなくなる。
このトレードオフを何度も経験しました。
でも今は、少しずつわかってきたんです。
信じる ⇄ 疑う は、“どちらが正しいか”ではなく、“行き来する構造”そのものが大切なのだと。
そして、その行き来のなかで、「ちょうどいい場所=ニュートラルな姿勢」を探し続ける。
それが、考え続けるということなのだと、今では思えています。
まとめ:問いを持ちながら、変わり続ける勇気を
哲学的に見れば、考えるとは常に自分の足元を疑う行為。
そして実践的に見れば、動くには信じることが必要。
この一見矛盾するような両者を、往復し続けることこそが「教育」と向き合う態度なのかもしれません。
鷲田清一さんの言葉──
「“考え続ける”ことは、時に“疑い続ける”ことでもある。」
私たちはそのプロセスを恐れず、むしろ受け入れながら、自分の問いを更新し続けていきたい。
信じて動き、疑いながら進む。
それが、私にとっての「考え続ける」ということです。
本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です










































