こんにちは、おぐりんです。「“多様性”を認める社会って、誰かの居場所を奪ってない?」こんな問いを、ふと思うことがあります。私たちは近年、「多様性を認めよう」「違いを尊重しよう」と繰り返してきました。でもそのたびに、なぜか胸のどこかがモヤっとする感覚がありました。それは、“違いを尊重する”という言葉の裏に、「誰がその違いを定義するのか?」という線引きの存在を感じてしまうからです。「いちいち区別しなくなった」と思えた瞬間「多様性が認められてきた」と感じたのは、誰かを特別扱いするようになったときではなく、むしろ「いちいち区別しなくなった」と自分の中で思えたときでした。例えば、LGBTQという言葉を見聞きする機会が増えたことは、社会の理解が進んだ証でもあります。でも一方で、それをあえて言葉にすることで、「線を引くこと」になっているような感覚もどこかにある。私は、「その人がどうであるか」はその人自身の話であって、こちらから名前をつけて区別すること自体が、実は“尊重”ではない気がしています。「認める」という行為が生む、逆説“多様性を認める”という言葉が、誰かに「あなたは違う存在です」と言っているように響くときがあります。もちろん、社会制度としての配慮や保護は必要です。でも本質的には、「人はみんな違う」が前提になっている社会こそが、多様性のある社会だと思うのです。それは、ラベルで人を理解するのではなく、関係性の中で自然に違いを受け入れていく構え。“認める”という言葉を使わなくても成り立つ場所。それが、本当の意味で多様性がある状態なのではないでしょうか。「それはそれ、これはこれ」私の中にある感覚で、とても大切にしている言葉があります。「それはそれ、これはこれ」違いがある。それは当たり前。でも、その違いを無理に埋めようともしないし、過剰に持ち上げようともしない。「それはそれ」と分けて考え、「これはこれ」と自分の位置を保つ。この感覚が、実はとても健やかな多様性との向き合い方なのではないかと思うんです。多様性とは、空気である本当の意味で多様性がある場所って、制度や言葉よりも“空気”なんじゃないかと思います。なんかここは安心できるな。わざわざ説明しなくても、そのままでいられる感じがある。それは、“にじみ合い”のような空間です。ラベルも分類もなく、ただそこにあるグラデーションのようなもの。そんな空気の中では、「多様性」という言葉は必要ないのかもしれません。多様性を叫ばなくてもいい社会へ私は、特別扱いでも一般化でもない、“第三のまなざし”を大切にしたいと思っています。違いがあることを前提に、それを際立たせず、混ぜようともせず、「それはそれ、これはこれ」と淡々と共にある。そんな社会があったら、たぶん私はそこにいるだけで深呼吸できる。“多様性”という言葉がいらなくなる日。それは、「もうそれが当たり前になった」社会なのかもしれません。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です