こんにちは、おぐりんです。「あなたって◯◯な人だね」そう言われたとき、なぜか素直に喜べなかった──そんな経験、ありませんか?私は大学生の頃、インターン先の方にこんなふうに言われたことがあります。「あなたは感情が強く出る。でも、他人の感情は受け止める姿勢がないね。」それは褒めでもなければ、明確な否定でもない。“評価と指摘”が混ざったような言葉でした。そして私は、その言葉に強く引っかかった。「たしかに…」と思う一方で、「それだけじゃない」とも思ったんです。熱で動き、理で語る。自分の“構造”にあるズレ私は、自分の中に“心”と“頭”が共存しているのをよく感じます。なにかに惹かれるとき、動いているのは心。ワクワクするかどうか、衝動に突き動かされて動くことが多いんです。でも、人と関わるとき、言葉になるのは“頭”の声なんですよね。誰かにフィードバックをするとき、感情より先に論理が出る。だからきっと、「冷たく見える」瞬間もあったんだと思います。少年のような心、お父さんのような頭このズレはずっとあったし、正直、しんどさもありました。「やりたい」と思っているのに、頭では「それ本当に意味あるの?」と問いが止まらない。だからこそ、衝動で動いて後悔したこともあれば、頭で抑えて後悔したこともある。私は最近、自分の中に“少年のような心”と“お父さんのような頭”がいるんだと思うようになりました。やりたいことを叫ぶ少年と、それを冷静に見ている大人。どちらも、私にとって欠かせない存在です。自己調律という対話あのときの指摘は、今振り返ればとても大切な転機でした。ロジカルに褒め、ロジカルに意見を伝える自分。でも、その言葉には、自分の心がのっていなかったりする。だから今は、できるだけ“両方の声”を聞くようにしています。感情が走ったら、一晩寝かせる。ロジカルに納得しても、ワクワクしているかを確かめる。頭と心が対話できるようになったことで、以前よりもずっと、自分の言葉に温度が乗るようになった気がします。どちらかではなく、両方を持っていい評価と自己認識のズレ。それに気づいたとき、私たちは“自己調律”のスタートラインに立てるのかもしれません。「これは違う」ではなく、「それもある。でも、私はこう思っている」そんなふうに、他者の鏡を使いながら、自分のかたちをなぞっていく。あなたの中にも、“少年の心”と“お父さんの頭”がいませんか?どちらも、あなたという人をつくっている大切な一部。そのバランスを感じながら、自分だけの“在り方”を育てていきましょう。本記事は、「コラム記事の達人」を活用し、録音した音声データから約10分で作成しています。「コラム記事の達人」は、nukumo社が提供する業務改善ツール「Aidia」の一機能です