
誠意は“伝える”じゃなく、“届くまでやる”こと謝罪をめぐるプライドと修復のリアリズム
公開日: 2025/7/30
こんにちは、おぐりんです。
たとえば芸能人の不倫報道に対する“謝罪会見”。
どこか違和感を覚えたことはありませんか?
もちろん、迷惑をかけた関係者に謝るのは当然のこと。でも、あの場面での謝罪は、本当に“必要な誰か”に届いているんだろうか?と疑問に感じることがあります。
謝罪の相手は「社会」じゃない。
謝るべきは、本当に傷ついた“誰か”に対してなんじゃないか。
謝るしかなかった過去の場面
私自身、これまでに「謝るしかなかったな…」と思う場面が何度もありました。
たとえば、自分のせいで誰かが損をしたり、嫌な思いをしたり、必要のない役回りをさせてしまったと気づいたとき。
そういうとき、「悪かったな」と心から思うんです。だから謝る。その相手に誠実でいたいから。
でも一方で、空気に合わせて謝るような場面には強い違和感があります。
誰にも実害のない“イメージ”の話で、あらゆる人に向けて頭を下げなければならない風潮。
それって、謝罪の本質をどこか見失っていないか?と思うのです。
“響かない謝罪”のズレ
逆に、「あ、この謝罪は全然響かないな…」と思った経験もあります。
それは、誠意が見えないとき。
謝ってる“ふう”なのはわかる。でも、心には届かない。そういう謝罪、ありますよね。
大事なのは、「自分は謝ったつもり」ではなく、「相手にちゃんと届いたかどうか」。
もし本当に謝りたいなら、言葉を変えてでも、何度でも、態度で示してでも届けにいく。
そうやって、“伝える”じゃなく、“届くまでやる”。
それが、私の思う「誠意」です。
謝れなかった経験と、プライドの正体
それでも、“どうしても謝れなかったこと”もあります。
私の場合、それは「謝ること」自体が難しいというより、
“自分が悪いと認めること”が怖かったんだと思います。
多少の正しさが自分にあると思っているとき、謝るという行為は、“負けを認める”ように感じてしまう。
でも最近は思うんです。
たとえ自分が100%悪くなかったとしても、関係をこれからも大切にしたいと思うなら、謝ることで見える景色もある。
謝ることで気持ちが軽くなったり、相手との関係が戻ったりするなら、それはそれで良い選択だったと言えるかもしれない。
もちろん、自分の尊厳を犠牲にしてまで謝る必要はない。
でも、「正しさ」より「関係」を取る選択肢も、大人の判断なのかなって思います。
謝罪は、修復のはじまり
アルベール・カミュは言いました。
「誠実であるとは、自分の不完全さとともに生きることだ。」
謝罪とは、自分の不完全さを認め、それでも誰かとの関係を続けたいと願う行為なのかもしれません。
だからこそ、謝ることは自己否定ではない。
謝ることで、信頼や尊厳を“再び”つくっていくスタートラインに立つ。
誠意とは、“伝える”ことじゃない。
届くまでやること、そのものなんだと思います。









































