こんにちは、おぐりんです。「親ガチャ」という言葉、あなたはどう受け止めていますか?私がこの言葉を初めて聞いたとき、率直に「悲しい社会だな」と感じました。たしかに、子どもは親を選べません。どんな家庭に生まれるかによって、人生のスタート地点に格差が生まれる──これはもう、どうしようもなく現実にあることだと思います。けれど私は、そこにひとつの違和感も抱いていました。それは、「その言葉を“自分の口で言うか?”」という感覚。親ガチャという言葉の奥にある、足らればと感謝の交差点私は決して裕福な家庭に育ったわけではありません。でも、人間として大切なことを教えてくれた親には、今も感謝しています。もちろん、「もし別の家庭だったら…」と思ったこともあります。もっと自己肯定感が高かったかもしれない。もっと別の夢を持てたかもしれない。でも、そうした“足られば”は、今の私をつくってくれた環境を否定することにもなる。だから私は、「環境をどう語るか」はすごく慎重でありたいと思っています。声にならなかった叫びを、どう拾うかそれでも、「親ガチャ」という言葉が生まれた背景には、声にならなかった子どもたちの“叫び”があることも確かです。苦しい家庭環境に生まれた子どもたち。虐待や貧困の中で、選択肢を持てないまま育つ現実。それを言語化したこと自体には、大きな意味があります。でも私は、そこに“教育”という視点を重ねたいんです。どんなに苦しい環境であっても、「こういう親のもとに生まれた子がいる」という理解が、他者への共感を育てる。そして、教育はその“痛み”を「意味のある力」へと変える選択肢を渡すものだと思っています。原因論ではなく、目的論で生きる心理学者アドラーは、こう言いました。人は環境の産物ではなく、環境に与える意味の産物である。私はこの考えに強く共感しています。どんな家庭に生まれたかは、もう変えられません。でも、その体験を“どう捉えるか”は、これから選びなおすことができます。だから、「親ガチャだった」と語ること自体が悪いのではない。問題は、それを「だからもう仕方ない」と諦めの理由にしてしまうこと。私たちは、「だからこそ、こうしたい」と語り直す力を持てるはずです。言葉は壁にもなるが、入り口にもなる「親ガチャ」という言葉は、確かに壁のようにも見える。でも、もしそれを“再定義する入り口”にできたなら?「親ガチャだった。でも、だからこそ優しさを知った」「親ガチャだった。でも、だからこそ社会を変えたいと思った」そんなふうに、言葉を“未来への目的”に変えていけたら。私は、教育という営みはそのためにあるのだと信じています。どんな出自であっても、子どもたちが「自分の人生をどう語るか」を選び直せるように。それができる社会でありたいと、心から願っています。