こんにちは、おぐりんです。“人間は不幸でも、自由を望むのだ”──これはドストエフスキーの『地下室の手記』の一節です。この言葉、ずっと頭の片隅に残っているんです。なぜ人は、苦しみや不幸を抱えていても、自由を求め続けるのか?逆に、今の時代には「不自由でも安心を選ぶ」ような選択も多い気がします。それでもやっぱり、自分の中には、“自分で選びたい”“変えられるものなら変えたい”という、小さな炎のような自由の衝動が、確かにあると感じるのです。「快適」では、幸福になれない理由そもそも僕たちは、なぜ自由を求めるんでしょうか?ドストエフスキーは、管理された幸福や快適さを人間が拒む理由として、こう考えました。完璧に整った世界には、「自分の選択」がない。それでは、人は“自分が自分である”という感覚を持てなくなる。僕も最近こんなことを思いました。幸福って、誰かに与えられるものではなくて、「自分との相対性」から生まれる感覚なんじゃないかと。つまり、「過去の自分と今の自分の差分」や、「変われた実感」こそが、幸福という実感を与えてくれるものなのでは?快適で整えられた空間では、この相対性が生まれません。変化がないから、感動も、成長の手応えも得られにくい。だから人は、たとえ少し不自由でも、自分で変化をつくれる場所を求めるのかもしれません。大学生で見えた「制約を選び直せる自由」僕にとって、「自由ってこういうことかもしれない」と感じたのは、大学生のときでした。それまでは、関わる人も時間の使い方も、かなり制約の中にあった。でも、受験を経て大学に入った瞬間、制約の種類そのものが変わったんですよね。もちろん、制約がゼロになったわけじゃない。だけど、“この人と関わりたい”“このことに時間を使いたい”という、自分で選び直せる感覚がそこにはあった。これはつまり、制約は消えないけれど、自分で選びなおせることが「自由」なんじゃないかという気づきでした。今まで嫌だった制約を、自分で選び直す。嫌なルールを、自分で納得のいく形に書き換える。それって、逃げたわけじゃない。むしろ、自分で“ルールの質”を変えるチャレンジだったんだと思います。自由とは、「遊べる制約」を持つことここで、もう一つ思うのは、自由とは「制約がゼロ」なことではないということです。僕たちは、何かしらの制約の中でしか生きられない。でも、その制約が“遊べる”ものになると、人生は一気に豊かになるんです。たとえば、仕事でも家庭でも、自分で意味づけできる制約って、ストレスというより、創造の素材になります。“このルールの中で、どう工夫しようか?”“この限られた条件で、何を試せるだろう?”そう考えられるとき、制約はもはや不自由ではなくなる。むしろ、それがあるからこそ、自分の輪郭が浮き上がる。自分との相対性が「幸福」の正体ドストエフスキーは、不幸でも自由を求める人間の逆説を描いたけれど、僕の中では、もう少し違った風に感じています。人間は、進化を感じられるなら制約を歓迎できる。苦しい時期や、息が詰まるような状況もありました。でもそれは、“昨日の自分”と違う自分になれる過程だった。変化の過程は、しんどい。だけど、変化の「あと」には、“あのときの自分と、今の自分は違う”という確かな相対性がある。それが、僕にとっての幸福のかたちかもしれません。だから、今日も制約と遊んでいる「制約を遊ぶ」っていう言い方は少し変かもしれませんが、僕にとっての自由って、まさにその感覚なんです。課題があってもいい。不完全であってもいい。だけど、その制約を、自分の言葉で意味づけして、少しでも楽しく、少しでも納得できる形に変えていけたら。それこそが、僕にとっての自由。不自由を避けるのではなく、“意味ある不自由”に変えていく技術こそが、本当の自由をつくるのかもしれません。今日も僕は、自分の選んだ制約と向き合いながら、その中で遊び、試し、問い続けています。あなたにとって、“遊べる制約”はどんなものですか?