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OGURIN.com

1992年8月9日、福岡県生まれ。
一般社団法人nukumo代表理事。

制約は消せない。でも遊べる —— 自由の再定義

公開日: 2025/10/9

こんにちは、おぐりんです。

“人間は不幸でも、自由を望むのだ”
──これはドストエフスキーの『地下室の手記』の一節です。

この言葉、ずっと頭の片隅に残っているんです。

なぜ人は、苦しみや不幸を抱えていても、自由を求め続けるのか?
逆に、今の時代には「不自由でも安心を選ぶ」ような選択も多い気がします。

それでもやっぱり、自分の中には、
“自分で選びたい”“変えられるものなら変えたい”という、
小さな炎のような自由の衝動が、確かにあると感じるのです。

「快適」では、幸福になれない理由

そもそも僕たちは、なぜ自由を求めるんでしょうか?
ドストエフスキーは、管理された幸福や快適さを人間が拒む理由として、こう考えました。

完璧に整った世界には、「自分の選択」がない。
それでは、人は“自分が自分である”という感覚を持てなくなる。

僕も最近こんなことを思いました。

幸福って、誰かに与えられるものではなくて、
「自分との相対性」から生まれる感覚なんじゃないかと。

つまり、「過去の自分と今の自分の差分」や、「変われた実感」こそが、
幸福という実感を与えてくれるものなのでは?

快適で整えられた空間では、この相対性が生まれません。
変化がないから、感動も、成長の手応えも得られにくい。

だから人は、たとえ少し不自由でも、自分で変化をつくれる場所を求めるのかもしれません。

大学生で見えた「制約を選び直せる自由」

僕にとって、「自由ってこういうことかもしれない」と感じたのは、大学生のときでした。

それまでは、関わる人も時間の使い方も、かなり制約の中にあった。でも、受験を経て大学に入った瞬間、制約の種類そのものが変わったんですよね。

もちろん、制約がゼロになったわけじゃない。
だけど、“この人と関わりたい”“このことに時間を使いたい”という、
自分で選び直せる感覚がそこにはあった。

これはつまり、
制約は消えないけれど、自分で選びなおせることが「自由」なんじゃないかという気づきでした。

今まで嫌だった制約を、自分で選び直す。
嫌なルールを、自分で納得のいく形に書き換える。

それって、逃げたわけじゃない。
むしろ、自分で“ルールの質”を変えるチャレンジだったんだと思います。

自由とは、「遊べる制約」を持つこと

ここで、もう一つ思うのは、
自由とは「制約がゼロ」なことではないということです。

僕たちは、何かしらの制約の中でしか生きられない。
でも、その制約が“遊べる”ものになると、人生は一気に豊かになるんです。

たとえば、仕事でも家庭でも、自分で意味づけできる制約って、
ストレスというより、創造の素材になります。

“このルールの中で、どう工夫しようか?”
“この限られた条件で、何を試せるだろう?”

そう考えられるとき、制約はもはや不自由ではなくなる。
むしろ、それがあるからこそ、自分の輪郭が浮き上がる。

自分との相対性が「幸福」の正体

ドストエフスキーは、不幸でも自由を求める人間の逆説を描いたけれど、
僕の中では、もう少し違った風に感じています。

人間は、進化を感じられるなら制約を歓迎できる。

苦しい時期や、息が詰まるような状況もありました。
でもそれは、“昨日の自分”と違う自分になれる過程だった。

変化の過程は、しんどい。
だけど、変化の「あと」には、
“あのときの自分と、今の自分は違う”という確かな相対性がある。

それが、僕にとっての幸福のかたちかもしれません。

だから、今日も制約と遊んでいる

「制約を遊ぶ」っていう言い方は少し変かもしれませんが、
僕にとっての自由って、まさにその感覚なんです。

課題があってもいい。
不完全であってもいい。

だけど、その制約を、自分の言葉で意味づけして、
少しでも楽しく、少しでも納得できる形に変えていけたら。

それこそが、僕にとっての自由。

不自由を避けるのではなく、
“意味ある不自由”に変えていく技術こそが、
本当の自由をつくるのかもしれません。

今日も僕は、自分の選んだ制約と向き合いながら、
その中で遊び、試し、問い続けています。

あなたにとって、“遊べる制約”はどんなものですか?

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