こんにちは、おぐりんです。「知っていることしか起きない人生」——そう考えると、なんだか窮屈に感じませんか?私たちはつい、「知ること」を積み上げる方向で捉えがちです。けれど、哲学者カール・ポパーの言葉に出会ったとき、私はその前提がやさしく崩れていくのを感じました。「私たちの知は有限だが、無知は必然的に無限である。」これは、「知識とは完成ではなく、更新である」という宣言です。知ることの本質は“誤りを修正し続ける”プロセスにある。つまり、「知らない」ことを前提に世界と関わることこそ、知の態度なのです。この考え方に出会ってから、私は「わかる」より「わからない」を楽しむようになりました。誰かの話を聞くときも、企画を立てるときも、「自分の理解がどこで止まっているか」に意識を向ける。そうすると、不思議と人との関係もやわらかくなり、アイデアも伸びやかに広がっていくんです。登る知から、下る知へポパーの思想を読んでいて、ふと頭に浮かんだのが“山下り”という比喩でした。登りながら「見えているつもり」でも、実際に地形が見えるのは下っているとき。上を目指すことが知識の拡大だとすれば、下ることは視野の拡張です。私たちは、「分からない」という感覚に立ち返ることでしか、世界の全体像を見渡せないのかもしれません。知らないことを受け入れるとき、知るという営みは初めて“立体”になります。登っているときは、目の前の頂上ばかりに意識が向いてしまう。でも、下ってみると、道の曲がり具合、草の匂い、遠くの街の光——そうした細部に、初めて気づく瞬間があります。それはまるで、自分の「わからなさ」と再会するような感覚。知識の旅とは、もしかすると、この“再会”を繰り返すことなのかもしれません。閉じた体系ではなく、開かれた態度でポパーは「dogmatism(強情主義)」を批判しました。すべてを知っていると思い込んだ瞬間、世界は閉じてしまう。逆に「open society(開かれた社会)」とは、誤りうる前提で、他者や世界と対話を続ける構えのこと。私自身、教育やプロジェクトの現場で感じるのは、「知らない」からこそ生まれる協働の力です。すべてを知っている“先生”より、「一緒に探ろう」と言える大人がいるほうが、場が豊かに動き出す。知識よりも関係性の中に、学びの発火点があるように思います。「知らない」という姿勢は、リーダーシップの在り方も変えます。チームを率いるとき、「わからないね」「どう思う?」と投げかけることで、メンバーの思考が動き始める。正解を提示するより、問いを共有する。それが、信頼をつくる行為になるのです。ポパーの言う“批判的合理主義”とは、まさにその連鎖——批判とは破壊ではなく、共同探求の出発点なのだと思います。日常を“未知”に開く「未知と出会う余白」は、特別な旅の中だけにあるものではありません。むしろ、いつものルーティンのなかにも潜んでいる。人の表情の違和感を察知すること。仕事のやり方に新しい可能性を見つけること。「分かっているつもり」を揺らがせる仲間の存在。——そうした瞬間こそが、“知らないこと”と出会う旅の入口です。旅とは、外の世界を広げることだけでなく、“知っている自分”の外に出ること。そのプロセスにこそ、生きる面白さがあるのではないでしょうか。そして、“未知”と出会うには、ほんの少しの好奇心と勇気で十分です。新しいカフェに入ってみる。普段と違う道を歩いてみる。苦手な人に話しかけてみる。たったそれだけで、世界の解像度は一段深くなる。未知を遠くに探しに行く必要なんてない。日常のなかにこそ、私たちの「知の冒険」は眠っているのです。知るとは、誤りを更新すること知識とは、完成ではなく暫定。誤りを修正し続けるためのプロセスであり、創造の営みです。「知らない」を抱きしめながら動くことができる人こそ、世界とともに変わり続けることができる。知とは、積み上げではなく“ほころび”の中に生まれるもの。だからこそ、誤りを恐れず、対話を止めず、問いを抱き続ける姿勢が必要なのだと思います。正しさに固執するより、更新し続ける勇気を持つこと。そこに、ポパーが語った「知の倫理」があるのかもしれません。だから私は思います。知らない前提で生きることは、謙虚である以前に、いちばんクリエイティブな生き方なのかもしれません。あなたにとって、“知らない前提”で動く瞬間はどんなときですか?