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OGURIN.com

1992年8月9日、福岡県生まれ。
一般社団法人nukumo代表理事。

データに意志を取り戻す──感覚と分析のあいだにある哲学

公開日: 2025/11/10

こんにちは、おぐりんです。

ダン・アリエリーはかつてこう言いました。

"Big data is like teenage sex: everyone talks about it, nobody really knows how to do it."
ビッグデータはティーンの性のようなもの。皆が話すが、誰もよくわかっていない。

少し笑ってしまうようなユーモアですが、この比喩には深い示唆があります。社会が新しいテクノロジーに熱狂するとき、往々にしてその「目的」や「意図」が置き去りにされる。僕はこの言葉を聞くたびに、データ活用の現場で感じる“違和感”を思い出します。それは、数字の精度よりも、「何を見ようとしているのか」という“問いの品質”がどれほど重要かを思い出させてくれる瞬間です。

データ分析“ありき”の現場にある虚しさ

最近では、スポーツでも教育でも、「データドリブン」という言葉が当たり前になってきました。僕自身、データの力は信じています。人間の勘や経験では見落としていたパターンを浮かび上がらせることができる。それは確かに価値のあることです。

けれども、現場でよく耳にする言葉に、こんなものがあります。
「このデータから何が言えるかを考えています。」

その瞬間、僕はいつも胸の奥がざらつきます。なぜなら、「何を言いたいか」ではなく「何が言えるか」になっているからです。データを取る理由も、使う目的も曖昧なまま、分析すること自体が目的化してしまっている。そこに“人の意志”はあるのか?と問いたくなるのです。

データ分析の現場では、分析手法やツールの進化ばかりが話題になります。AIモデルの精度や、グラフの美しさに注目が集まる。でも僕が本当に知りたいのは、「そのデータを通して、何を変えたいのか」「何を確かめたいのか」という問いなんです。目的を見失った分析は、どんなに高度でも、魂のない行為になってしまう。僕はその虚しさを、何度も目にしてきました。

データは羅針盤ではなく、鏡である

僕が大切にしている順序があります。

哲学(どうありたいか) → 仮説(なぜそうなっているか) → データ(証拠) → 検証(確かめる)

この順序が崩れると、データは人を導く羅針盤ではなく、単なる“数字の海”になります。たとえばフットボールの現場なら、「こういうサッカーがしたい」という理念がまずあって、それを可視化するためにデータを使うべきなんです。データが先にあって理念が後からついてくる構造は、どこか本末転倒だと思います。

理念が失われたチームは、数字のためにプレーをしはじめます。パス成功率を上げることが目的になり、勝利や成長ではなく“数値”が評価軸になる。選手の動きも、コーチの判断も、データに縛られていく。そんな現場を見るたびに、僕は悲しくなる。フットボールとは、もともと“美しさ”や“意思”が交錯する文化であり、数字では測りきれない人間の表現そのものだからです。

データとは、理念を支えるための鏡であって、定義をつくる道具ではない。僕はそう考えています。鏡は、自分たちの姿勢を映し出すもの。そこに何を映したいかを決めるのは、あくまで人間なんです。

感覚を翻訳するためのデータ

もう一歩踏み込むと、僕にとってデータとは「感覚を翻訳するためのツール」です。

「このプレー、なんか良かったよね」
「この授業、すごく引き込まれた」

そんな“感覚的な違い”を、言葉や数字で捉え直すためにデータはある。つまり、感覚を証明するためではなく、感覚を理解するために使う。これが僕の考える、データとの正しい向き合い方です。

フットボールでは、試合を見たときの“良い試合”という感覚に必ず背景があります。テンポ、間合い、連携のリズム。その背後には、数値化できる動きと数値化できない意思決定が混ざっている。データはその複雑さをすべて説明することはできないけれど、理解の手がかりにはなる。感覚とデータは、敵ではなく“補完関係”にあるんです。

僕は教育の現場でも同じことを感じます。生徒が「楽しかった」と言う授業をデータで分析してみると、発言回数よりも、教師の表情や間の取り方が影響していた、なんてこともある。データは感覚を言葉にする助けになります。そこに本来の価値がある。

データを見て初めて「なぜそう感じたのか」がわかる瞬間がある。そのとき、数字と人間の感性がつながる。データと感覚は対立するものではなく、対話できる関係なんです。

判断の自動化ではなく、意志の言語化へ

AIやビッグデータの時代になるほど、僕らは「判断を自動化する」方向に進みがちです。でも本当に必要なのは、判断を支える意志をどう言語化するかという問いです。

データは万能ではありません。むしろ、それを扱う人間の問いの質によって価値が決まる。だからこそ、僕らはもっと“なぜそれを測るのか”を問う必要があると思うんです。

教育においても、学力データやテストスコアが先行すると、子どもの成長が数字でしか評価されなくなってしまう危険があります。でも「なぜこの力を伸ばしたいのか」「何を学びと呼ぶのか」という意志を言語化できたとき、データは初めて意味を持つ。AIに学習履歴を分析させること自体ではなく、「どう成長したいのか」を言葉にすることこそが、教育の根幹だと思うのです。

僕は、データの未来とは「人間の意志を拡張するための技術」だと信じています。データに踊らされるのではなく、データを通して自分たちの意志を確かめる。そのプロセスにこそ、データ社会における「人間らしさ」が宿るのではないでしょうか。

未来を見通すためではなく、今の自分たちの哲学を映すために
データに、意志を取り戻す時が来ていると思います。

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データに意志を取り戻す──感覚と分析のあいだにある哲学